Alternative

後篇

 気がつくと宿屋のベッドだった。この街に着いたときにアウラたちがとった四人部屋だ。
 身体を起こし、暗い室内を見渡すが、ほかの仲間はまだ誰も帰っていないようだった。全身がひどく重だるく、頭痛がする。あの森での出来事はどこか夢のように曖昧だったが、服のままベットに入っているということはたしかに現実だったようだ。歩いて帰った記憶がないから、誰かが運んできてくれたのか。
 身体はまだ重かったが歩けないほどではない。身体はあと少し休息を欲していたが、部屋を出て階下に行きたかった。今は暗い部屋にひとりきりでいるのが、嫌だった。
 階下に降りると、ロビーの椅子にレムオンが腰掛けていた。アウラに気づいて立ち上がる。
「気がついたのか」
「レムオン……もしかしてあなたが運んでくれたの?」
「あぁ」頷いてから、レムオンはなぜか顔を曇らせた。
「そっか、ありがと」
「肝が冷えたぞ。お前はなかなか宿に戻らず、一緒に酒場にいたというゼネテスは、アウラは先に帰ったはすだと言うではないか。嫌な予感がして探し回ったら、森のなかでお前が倒れていた」
「ごめん、心配かけて」
「ごめん、だと?」
 突然、レムオンが気色ばむ。
「ひとりでこんな時間にあんな場所で倒れてたんだぞ! どれだけ心配したと思ってるんだ!」
「だから、ごめんって言ってるでしょ!」
 怒号を受けて、思わずアウラも怒鳴り返す。
「そんなに怒らなくたっていいじゃない。わたしももう子供じゃないんだから」
「あぁそうだ、子供のほうがまだマシというものだ! 倒れているお前を見たとき……俺はお前を失ったのかと思った」
 最後は失速するように声を詰まらせたレムオンに、アウラは冷や水を浴びたように目が醒める思いがした。そして、先ほどまでの自分を自分で叱りつけたかった。彼にこんな表情をさせてしまったことに。
 あのとき――ティアナに首を絞められたとき、このまま彼女に殺されてもいいとわずかでも思ってしまったことを後悔した。自分が死んだら悲しむ者がいる。救えなかった、と後悔する者もいるかもしれない。自惚れなんかじゃない。自分を愛してくれる人たちがいる――それをあまりにもアウラは理解していなかった。あのとき、死にたかったわけではない。だがティアナの深い絶望、憎悪、悲しみを前に、抵抗する気力を失ってしまっていた。あの瞬間、自分の生を軽んじてしまっていた。
「ごめん……」
 小さく謝ると、レムオンも落ち着いたのか、声を落として訊ねてきた。
「何があった。なぜあんなところにいたんだ」
「それが……自分でもよくわかんないのよね。なんであんな場所にいたんだろ。たぶん、ひとりになりたかったのかも」
 レムオンは釈然としない顔をしていた。だが本当にアウラにもわからないのだ。気がついた森のなかにいた。まるで導かれるように。
「その痣は、なんだ」
「え?」
 静かに訊ねるレムオンに、わけがわからず訊き返す。
「首の痣だ」
 首――ティアナに絞められたときについた痕か。思わず首元を隠すように手で覆うが、もう遅い。
「誰にやられた?」
 アウラは押し黙った。当然レムオンが引くはずもなく。
「言え、誰にやられたんだ?」
「えっと……チンピラに絡まれたのよ」
「お前ほどの冒険者が? 首にそんな痣をつけられるほどの不覚をとったと?」
「……買い被りよ」
「嘘だろう」
 レムオンは追及の手を緩めそうにない。だからといってアウラもティアナのことを話すつもりはなかった。ただでさえ初恋の女性の変貌にショックを受けていた彼だ。彼の気持ちを考えればやはり話せない。それだけでなく、ティアナとはアウラよりも付き合いの長いレムオンだ。彼女との良き思い出もたくさんあるだろう。それらの思い出が彼のなかで苦いものでしかなくなるようなことはしたくない。
 ――いいや、違う。
 レムオンのためと言いながら本当は自分のためなのかもしれない。記憶のなかのティアナとの思い出を、思い出すとつらくなるような過去にしたくないのだ。
 レムオンに付き合って一緒にティアナに会いに行ったり、アウラ一人で会いに行くこともあった。あのころを思い出すと苦しくなるが、だからといってなかったことにしたくない。あのころのティアナがすべで嘘だったとは思わない。だが口にすれば、レムオンに話せば、そのあたたかな思い出も否定されるような気がした。
「なぜ隠す? 俺には言えないことなのか?」
 何と答えてもレムオンを傷つけそうでアウラは何も返せなかった。
「頼むから教えてくれ。どうしても教えぬというなら、俺はお前を外に出られないように閉じ込めて誰の目にも触れさせないようにする。たとえお前にどれだけ恨まれようともな。本気だ」
 レムオンはソファにどかりと座ってとうつむいて、自嘲気味に口角を上げた。
「狂っているだろう? 俺も闇に堕ちているようなものだ。俺の知らないところでお前の身に何かあったら俺は……。お前の力を信用していないわけではないのだ。だが、今回のようなことがもしまた起きたらと思うと」
「レムオン……」
「引いたか? だがこれが俺だ。つきあいきれんと言うなら切り捨てればいい。いっそ関わらないほうが互いにとっていいのかもしれんな」
「……どうしてそういう結論になるのよ」
 アウラはため息まじりに言った。口では突き放すようなことを言い、何もかも諦めたような態度でいながらも、心の奥底では拒絶をおそれる、臆病で寂しがり屋な彼の脆さを知っている。だがいまさら、それにつきあいきれないなんて言うわけがない。
「バカね。ほんと、バカ。あんたも、わたしも」
 アウラはレムオンが座るソファに近づき、膝をついて抱きしめる。
 たとえいまは傷の舐め合いでしかなくとも。いつかその弱さも克服できると信じて。
「教えてくれ、アウラ。この痕は誰が? 大丈夫だ、何を聞いてももう取り乱さない……努力する」
 どこか自信なさげな最後のひとことに、アウラは心中で苦笑する。
「ごめん。言えない」
「……何故だ」
「だって、言ったらあんた、殺しに行くでしょ?」
 レムオンが一瞬息を詰まらせたのを感じた。
「……それの何が悪い?」
「報復なんてやめて。そんなこと私はしてもらいたくないし、レムオンにもさせたくない」
「……アウラ」
「だからさ、『俺も闇に堕ちてるようなもの』なんて言わないでよ」
 レムオンは無言だった。ダルケニスの性質が彼を闇たらしめるのか。ならば。
「それなら、わたしも一緒に堕ちるから」
「アウラ?」
 レムオンは動揺したのか、アウラの背に回っていた腕が震え、声に戸惑いが表れる。
「レムオンとならいいよ」
 ティアナに首を絞められたとき、死を覚悟した。あのときの覚悟は嘘じゃない。だが、今こうして誰かの体温を感じると、改めて生を実感する。諦めてはだめだと。この体温を失ってはならないと。強くそう思う。
 レムオンがアウラの肩に手をやり、自分から身体を離す。目を瞬きながらアウラがレムオンを見やると、彼の真剣な眼差しがあった。距離がだんだん近くなり、やがてどちらからともなく、唇に触れ合う寸前――けたたましく宿の扉が開かれた。
「あーもう! こんっな夜更けに叩き起こされてアウラを探し回ったあげく、帰ってきてみれば……人の気も知らずにちゃっかりレムオンと帰ってきて二人していちゃついて! なんなのよー!」
 振り返らなくてもわかるその口調と声色は、フェティだ。その後ろからゼネテスが苦笑しながらやってきた。
「ま、何にせよ無事でよかったぜ」
「よかった、ですって!?」
 ゼネテスの言葉を受けて喚くフェティ。
「ちっともよくなんかなくってよ! アウラ、この高貴なアタクシをこんな夜中に駆けずり回らせたことへの迷惑は、きっちり払ってもらうわよ!」
「あー……ごめん、フェティ」
 今度夕食奢る、と言ってとりあえず怒りを収めてもらった。






 誰かの闇の深さは誰にもわからない。どれだけの闇を抱えているかなんて、本人以外には、否ともすれば本人すらも推し量ることなどできないのだ。アウラはレムオンの弱さを知っている。だがレムオンの闇の深さは本人にしかわからない。アウラはわかっているつもりでも、目に見える形から想像しているにすぎない。そしてその想像が及んでいないこともあれば測り違えていることもある。大切な人たちのすべてをわかりたくてもわかり合えない部分はあって、それがアウラにはもどかしい。
 溶け合うように、すべてを共有できたなら――かけらも取りこぼすこともないのに。そう思うのは傲慢だろうか。
何かを優先すれば、他の何かを疎かにする。
 アウラはすべてを手放したくなかった。今あるすべてを失いたくなかった。弟、仲間、愛する人――どれも大切で天秤にはかけられない。だがそれはきっと、傲慢だ。ちっぽけな一人の人間が、自分の関わったすべてを、この腕にあまるほどの数の人々を、守り抜こうなんて、思い上がりもいいところだ。わかっている、それでも……。








 訪れることを避けていたロストールに数週間ぶりに訪ねたのは、ギルドでアトレイアからの手紙を受け取ったからだ。セルモノー王の様子がおかしいというので謁見したところ、彼は闇に堕ち、魔人に取り憑かれていた。あんなことがあったからか、それともずっと以前からか――いつから取り憑かれていたのかはわからない。
 魔人と化したセルモノーを倒すと、アトレイアが女王として即位することとなった。今でこそ闇の神器で視力を取り戻し、明るくなってきた彼女だが、それまで盲目だったこともありほとんど部屋に篭りきりで、貴族社会から一歩引いていた彼女。それがいきなり新女王に祭り上げられた。その心中はいくばくか、察するにあまりあるが、彼女は気丈に振舞っていた。今の彼女にはゴブゴブ団もついてくれている。彼らの存在が、今後も彼女の支えになるだろう。
「あの、アウラ様。実は他にもご相談したいことが……」
 そう言ってアトレイアに案内された部屋にはタルテュバがいた。シャリによって魔物に姿を変えられ、アウラたちに倒されたが生きていたのだ。そしてその彼をアトレイアが保護していたらしい。
 だが闇の力で暴走した影響か、ベッドの上ですでに虫の息だった。アトレイアからの頼みでアウラは手持ちの限りの生命のかけらを彼に与えると、わすがに意識を取り戻したタルデュバはこれまでの思いを打ち明けた。彼は彼自身が本来持っていたのであろう人の心を取り戻したようだった。
 最後はアウラたちが見守るなかで息を引き取った。
「安らかなお顔ですね」
 アトレイアが言うように、彼の死に顔は憑物が取れたように穏やかだった。皮肉にも、生前には見たことがないほど安らかな顔だ。
 彼は死してようやく、彼を苦しめていたしがらみのすべてから解放されたのだ。こんな形でしか、彼は解放されることはできなかったのだろうか。
 彼のしたことを許すことはできないが、彼もまた自身が置かれた環境に打ち勝つことができなかった、運命の犠牲者だ。
「私、タルテュバ様が嫌いでした」
 ぽつり、とアトレイアが言った。
「彼は私を目にするといつも醜いと罵り、嘲笑し、ティアナ様を褒めた。この方がいなくなればいいのにと、何度も、何度も……思いました」
 無理もない。アウラは言葉もなくただ聞いていた。
「でも不思議ですね。いざこの方が弱られるのを前にしたとき、自業自得だとも、嬉しいとも思いませんでした。憎しみより哀れみが先立ったのです。
 そして、今タルデュバ様の本音を聞いていて思いました。この方も、私と同じだったのだと。ずっと、他人と自分を比べて、及ばない自分に苦しんできたのだと。そんな自分を自覚するのが嫌で、タルデュバ様は身分の低い者や自分より醜い私のような者を貶していた。自分を呪い、周囲を呪っていたのだと」
 私も同じだったのです。でも、とアトレイアはアウラを振り返った。
「私は、アウラ様に救われた」
「私はたいしたことはしてない。アトレイア自身が変わろうとしたからだよ」
 アトレイアは首を横に振る。
「あなたが手を差し伸べてくださらなければ、私は闇に囚われたまま、後戻りできぬところまで行っていたでしょう。あなたが導いてくれた。それに……この方を助けようと思ったのは、きっとティアナ様だったらそうしただろうと思ったからでもあるのです」
 ティアナ――。彼女だったら、たしかにそうしただろう。
「お優しい方でしたから。本当なら……闇に堕ちていたのは私のほうだった。でもアウラ様が私を救ってくださった。闇に囚われていた私を光へと導いてくださった。本当に、感謝しています」
「アトレイア、わたしもあなたを救えてよかったよ。……ティアナのことも守りたかったけど」
「アウラ様……」
 アトレイアの表情が翳る。
「私がもっと強かったなら、きっとすべてがうまくいったんですよね。私が闇につけ込まれさえしなければ、今ここにティアナ様もいらして……王も闇に堕ちることもなく、あのような悲劇も起こらなかった」
「それはちがう! アトレイア、自分を責めないで。わたしもいまだに自分が許せないし、やるせないけど……誰が悪いとか考えたり、自分を責めるのは、もう、やめるよ。
 自分のせいにすれば苦しい。誰かのせいにすれば心は軽くなるけど、どっちにしたって何の解決にもならないし、誰も幸せになれない。
 人はみんな、そんなに強いもんじゃないから。自分のせいにしてたら潰れちゃう。それが闇を呼び寄せる。誰かのせいにして憎んだとしても同じことよ。どこかで許してあげないと、ずっと辛いままだから」
 アトレイアに言っているようでいてそれはアウラが自身に言い聞かせてもいた。
「――私には、アウラ様はお心もお力も、とてもお強く見えます。そんなアウラ様でも、闇に堕ちるなんてありうるでしょうか?」
「もちろん。それに私は、きっとアトレイアが思ってるほど強くないよ」
 アトレイアは驚いたように目を瞬かせたのち、思案するように目を伏せた。
「でも……そうですね。ティアナ様も、私とは真逆で、お心がしっかりなさってて、たくさんの方にも慕われていて、いつも自信がある方のように見えました。そんな方であっても、闇に堕ちてしまわれるのですから……人の心は簡単に推し量ることなどできないものですよね。
 でも、ティアナ様は本当にお優しい方でした。こんな私をいつも気にかけてくださって。上辺だけのものではない真心を感じました。目が見えないからこそ、わかることもあるんです。だけど……私は周りの人達からいつもあの方と比べられて……それが嫌で嫉妬していました。醜いですね。疑って、遠ざけて、周囲の陰口を聞いてますます疑って……。そんな自分に嫌になりながらも、卑屈になってしまうのを止められなくて……」
「ティアナも、そうだったのかな……」
 アウラはこのまえのティアナの言葉を思い出していた。
「え? ティアナ様が?」
 目を瞠るアトレイア。
「ティアナもね、周りが望む『光の王女』が重荷だったって、打ち明けてくれたことがあった」
「そうだったのですね……」
「このまえティアナに会ったの。自由なわたしが羨ましくて、ずっと妬ましかったって、言ってた。でもわたしの知る彼女は、いつだってわたしの話を楽しそうに聞いてくれた。悩みを打ち明けてくれたこともあった。
 今のティアナもの言ってることが嘘とは思わないけど、でも、あれが彼女の本来の姿だとはわたしには思えない。以前のティアナだって、嘘偽りでも建前なんかでもないと思ってる」
「きっと、どれもティアナ様なのだと思います」
 しばらくの間を置いたのち、アトレイアは静かに言った。
「私もそうでしたから。私はティアナ様に憧れていました。私と違って美しく、聡明で、誰からも愛されていたから。でも同時に妬ましくもあった。あの方を前にすると、いつも自分の外見や内面のいたらなさを思い知らされて……そんな自分がたまらなく嫌いでした。
 人の心はたったひとつの面だけではありません。ティアナ様がアウラ様のことをお慕いしてらしたのは本当だと思います。でも、どこかで嫉妬していたというのも本当なのでしょう。私からすれば、ティアナ様は何でも持ってらっしゃるかたで、誰かに嫉妬するなんて考えられないけれど、でもそれは私の価値観で決めつけていただけなのでしょう。
 私は今まで自分のことしか見えていなかった。見ようとしていなかった。でも、どんなに恵まれて見える方にも、他人にはわからない悩みや苦しみを抱えている……それが他の人には理解できなかったり、瑣末に思えるものなのです。
 私にも、ティアナ様にも、誰の心にも醜く悪しき闇がある」
「そうだね……」
 その闇を増幅し、人の心を変えてしまった者がいる。ロストールの宮廷に支えていた道化師の少年――。

「アウラ様、どうかお一人で思い詰めないでくださいね」
 昏い気持ちが表情に現れていたのか、アトレイアが気遣わしげにアウラを覗き込み、声をかける。
「人の心は光にも闇にも傾く。私はアウラ様によって、闇に傾いた心を救ってくださった。きっと、どちらに傾くかは自分だけの力ではないのですわ。自分ではどうにもならないこの心を踏み止まれたのはアウラ様がいたから。
 またいつか闇は襲ってくるかもしれません。でも、今の私には味方がいる。それを忘れずに頑張ろうと思います。
 アウラ様にもたくさんの味方がついています。微力ながら、私も。どうかそれを忘れないで」
「アトレイア……ありがとう。あなたのおかげで気づけたよ。
 私が好きだったティアナは嘘偽りなんかじゃない。彼女との思い出も、絆も。今どう思われていたとしても、あのころの彼女は紛れもなく真実なのだと今ならちゃんと信じられる。彼女を救うことは、できなかったけど」
「アウラ様」
 アトレイアは意を決したような顔で言った。
「どうかティアナ様を救ってあげてください」
真摯なアトレイアのまなざしに、アウラは一瞬言葉に詰まった。
 あのころのティアナを取り戻すことはもうできない。アトレイアもわかっているはずだ。
「闇からは救い出せなくても、アウラ様の思いを、ティアナ様はわかってくださる。今世で叶わなかったとしても、きっと」
「――わかった。必ずティアナを止める。何としても」
 差し違える覚悟で。もちろん、もう死ぬ気などないが、再び見えるときはおそらくもっとも過酷な戦場となる。命を賭してでも止めなければならない。
「そして必ず、生きて戻ってください。私、待ってますから」
 アトレイアの言葉にアウラは力強くうなずいた。