金色の風の軌跡
#3
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カルラ率いる青竜軍とゼネテスの軍は竜骨の砂漠南の街道にて対峙した。ゼネテス軍の十倍もの数の青竜軍をまえに、ゼネテスはわざと無防備な陣形を延々展開する。機略を警戒してか、青竜軍は攻めあぐね、両軍のあいだでしばらく睨み合いが続く。そのさなか、ある噂が流れ始める。ネメア死す――むろん、これはゼネテスが事前に仕掛けた策のひとつだ。別行動をとっている皇帝ネメアが死んだという虚報をツァラシェルたちが触れ回ったのである。これはディンガル軍に大きな動揺をもたらした。
「うまくいくもんだな」ゼネテスはにやりと笑う。
「カルラが騙されてくれるとは思えないけど」
「そうだな。あのお嬢さんはなかなかのキレ者だ。ハッタリだと気づいてるだろう。だが兵の不安を払拭できる根拠もないはずだ」
ところで、とゼネテスはザギヴに視線を向ける。
「ネメアはどこで何をしてるのか、あんたは本当に知らないのかい?」
「エンシャントを離れてずいぶん経つから、いまの私にはネメア様がどちらにいるのかはわからないわ。ただたしかなのは、ネメア様は闇の神器を探して世界各地をまわっているということ」ザギヴが返す。
闇の神器は全部で十二個、そのうち所在がはっきりしているものもあるが、不明なものも多い。そのいくつかは、アウラも所持している。
「そりゃ大変そうだな。ま、すくなくともこの戦争中に現れることはなさそうだ。じゃ、作戦を説明するぞ。ディンガル軍が動揺しているこの隙に、俺たちはこっそり本陣から離れてカルラ軍の裏側にまわり、敵本陣を一気に突破、カルラを叩く。だがタイミングが重要だ。いま叩けばカルラは混乱した兵を盾にして逃げちまう。そのあと新たに軍を編成してリベンジしてくるだろう。だから慎重に、確実にしとめなきゃな。カルラを討ちとるのはアウラにやってもらう。チャンスは一度きりだ。奇策なんてものは何度も通用しない。やってくれるか?」
「――わかった」
思わぬ大役を任されたが、アウラに否も応もない。カルラは手強い相手だがゼネテスはアウラの実力を信頼して任命してくれたのだ。彼女とはロセンで相対したが、ほんのわずかな対峙でも死神と称されるにふさわしい底知れぬ力量とプレッシャーを肌で感じた。おそろしくないといえば嘘になるが、あのころよりは自分もすこし強くなった。負ければ自分だけでない、ここにいる全員が死ぬことになる。
決意を新たにしたとき、天幕の外が騒がしいことに気づいた。
「姉ちゃん!」
兵士たちの制止を振り切って、ロストールに置いてきたはずのチャカが天幕に入ってきた。
「チャカ! どうしてここに」
「どうしてって、姉ちゃんが心配だからに決まってんだろ」
「帰んなさい。ここは戦場よ」
あんたが来るところじゃない、言外にそう含ませたが、それがかえってチャカの反抗心を刺激したようだ。
「帰るってどこにだよ。ノーブルを出たときから帰る場所なんてない。俺も戦う」
「なっ……」呆れて声も出ない。
「それが嫌なら俺と一緒にここを出るんだ。俺はどっちだっていいぜ。死ぬかも知れない戦に俺を置いて出ようなんて許さないんだからな」
アウラは腹が立った。誰のために戦っていると思ってるんだ。ティアナやアトレイア、レムオン、ゼネテスはもちろん、ただひとりの弟であるチャカこそ誰より守りたいと思っているのに。
「このまえの戦争だって、姉ちゃんは俺に相談もなしに勝手に戦うのを決めて……どれだけ心配したか」
それを言われると、何も返せない。あのあとしばらくチャカは拗ねて口を利こうとしなかった。
「チャカ」ゼネテスが口を挟む。「戦場ってのは殺るか殺られるかの世界だ。訓練を積んだ軍人ですら精神を病んだり、狂ってしまうこともある。それでも――戦う覚悟はあるのか?」
「そんなの、ノーブルで姉ちゃんと反乱を決起したときからとっくに覚悟はできてる」
「――わかった」ゼネテスは言った。「おまえさんの意志を尊重しよう」
「ゼネテス!?」
思わずアウラは目を剥いた。ゼネテスはアウラに向き直り、言った。
「チャカも子どもじゃない。ここはひとりの人間として、その意志を尊重してやるべきなんじゃないか?」
アウラはゼネテスを睨んだ。ただでさえ勝算の低い戦争だ。それなのにチャカの肩を持つなんてどういうつもりだ。
ゼネテスはやれやれというように後ろ頭を掻いてから、口を開いた。
「さて、押し問答しているヒマはないんで話を戻すぞ。カルラを討ち取るにはタイミングが重要ってのは話したな? いまはまだそのときじゃない。カルラが軍をまとめて腰をあげたときが狙い目だ。で、そのあいだ悪いんだが、アウラたちにはもうひとつ、やってもらいたいことがある」
ロストール王国の西にあるゼグナ鉱山周辺に強力なモンスターが出没するという。それを退治してきてほしいということだった。
「ディンガル軍に気を取られてる隙に魔物にロストールを襲われちゃ元も子もないからな」
ゼグナ鉱山は鉄が採取できる鉱山で、現在はすっかり荒れ果てているが、武具の精錬に必要な錬剛石やヒャンデ鉱という鉱石が採取できる。
「あなたと会ったのもゼグナ鉱山だったわね」
パーティのひとりイーシャが懐かしむように言う。
ついてくると言って聞かないチャカを、勝手にしろとアウラは突き放した。気まずい道中、アウラはイーシャと並んで先頭を歩き、その数メートル後方をチャカたちがついてきていた。
「チャカのこと、認めてあげられない?」
「認めるとか、認めないとかじゃないわ。チャカには私のような思いをしてほしくない」
「あなた、やっぱりジリオンに似てる。シャリが私のなかの同化の髪飾りを使ってジリオンを救う代わりに、私のソウルを犠牲にしなければならなかったとき、あなたは自分のソウルを犠牲にしようとした。あなたは無限のソウルを持っているから、勝算があったのかもしれないけど、あまりに危険な賭けだった」
「とりこぼしたくないんだ。みんなのこと、ただのひとりも失いたくない。だから、後悔しないように、自分のしたいようにやってきた。でも……誰かを守るために誰かを傷つけてる」
戦争で奪った命、アトレイア――誰かを救い、守ろうとして、それによって傷つけられた人たちがいる。
「誰かを守るって、そう簡単なことじゃないわわ」イーシャが言う。
「あなたは無限のソウルの持ち主だけど、神様じゃない。完全無欠の人間なんていないんだから。もっと周りを頼って。あなたのためなら私、いくらでも手を貸すわよ。私とジリオンがこうして生きていられるのはあなたのおかげだもの。だから今度は私があなたを助ける番」
「イーシャ……ありがとう」
「きっとチャカもあなたや私と同じ気持ちなんじゃないかしら。大切な人を守るために、後悔したくないから」
チャカも同じ気持ち――わかってはいても承服できない。死んでほしくない。守りたい人たちのために戦うことを選んだのに、これでは守れないではないか。仮に生き延びたとしても、血で血を洗うような戦場に身を投じることで、弟のなかの何かが変わってしまうかもしれないことをアウラはおそれていた。
ゼグナ鉱山でアウラたちはネメアを発見する。後を追うと、システィーナの伝道師のひとり、ジュサプブロスと対峙していた。アウラが来ることを予期していたらしいジュサプブロスはアウラになんらかの術を放った。それをかばったネメアはジュサプブロスの陥穽にはまり、次元のはざまに消えてしまった。報告を聞いたゼネテスはまたとない知らせと喜んだ。アウラにとっても敵国の指導者が消えたことは喜ばしいことだ。だがネメアの強引な改革が気に入らなかったとはいえ、ネメア個人に恨みがあるわけではない。ましてネメアはアウラをかばって次元のはざまに落ちた。喜ぶことなどとうていできなかった。
何よりもアウラは不吉な予感を禁じ得なかった。敵対する立場とはいえ、ネメアが世界を動かすほどの強力な指導者であったことは否めない。それが今後この世界にどう影響してくるのか。そんな漠然とした予感を覚えたのはゼネテスも同じであったらしい。
「こいつは世界にとって悪いシナリオのはじまりなのかもしれん」
それから、闇に乗じてゼネテス、アウラら精鋭部隊は移動を開始。夜明けとともに突撃をしかけた。ふいをつかれたカルラ軍は、ゼネテスの部隊の猛追に押されていく。そしてついに、青竜軍副将アイリーンと対峙した。だがアウラはアイリーンを討たなかった。街中で何度か面識があり、年頃も近いとあって酒場で話を弾ませたこともあった。故郷でも同じ年頃の友達がいなかったアウラにとって友のような存在であった彼女を討つことはできなかったのだ。アウラははじめて戦場から逃げ出した。それはこれまで命を奪ってきた者たちからすれば、卑怯な行為であっただろう。せめてもの救いはカルラが逃げていたことだ。もし彼女がアイリーンとともに向かってきたならば、逃げることはできなかっただろう。
事情を聞いたゼネテスはアウラを責めなかった。カルラは取り逃したが、ディンガルを追い返すことには成功したからだ。幸い、今回は兵の損害も最小限ですんだ。ゼネテスの策が功をそうしたといえる。
勝利の余韻もつかの間、思わぬ事態が待っていた。
「おいでなすったな」
その言葉から、ゼネテスはこの事態を予測していたようだ。
「貴様を物資横領、および収賄罪で逮捕する!」
突然数人の兵士が天幕に踏み込んできたかと思うと、ゼネテスに罪状を叩きつけたのだ。
「無実だよ」ゼネテスがアウラに言った。「叔母貴がやられたってことさ」
カルラに勝ち、外憂が晴れたのをこれ幸いと、クーデターを謀ったのだ。
アウラたちはただ見ていることしかできず、ゼネテスは兵士に連れられて行ってしまった。
「何ということじゃ」苛立ちよりさきに呆気に取られたような様子のアンギルダン。
「姉ちゃん、このままじゃゼネテスさんが……!」
言われるまでもない。この事態を引き起こした首謀者を何が何でも止めなければ。ついでに一発殴ってやらないと気がすまない。
アウラはその場の軍を兵士長に任せ、ロストールへ急いだ。
いつもは開かれているはずの城塞入り口の門はかたく閉ざされ、ノーブル伯であるアウラですら門衛は通そうとしなかった。門衛を峰打ちで倒し、市街へ足を踏み入れるとそこにはいつもの活気ある街の姿はなかった。どの家も店も門扉を閉ざし、町中は兵士が巡回する、ものものしい空気に包まれている。兵の少ない裏道を選んで隠れながら進むのでは間に合わない。追いかけてくる兵士たちを振り切って王城まで一気につっきった。王城の門前で魔物に襲われているティアナを助けたところに、エリスの密偵であるヴァイ、ヴィア姉妹が現れた。彼女たちはすでにエリスが処刑されたことを告げると、アウラに一通の手紙を手渡した。
「おそらく遺書です。ゼネテス様の」
「そんな! アウラ様、お願いです、どうかゼネテス様を……!」
アウラは力強くうなずき、ティアナを姉妹に任せると、謁見の間へ走った。
***
謁見の間に現れたアウラを見て、レムオンは激しく動揺した。
「な、何をしている、侵入者だ、つまみ出せ!」
ゼネテスを屠っていた竜騎士たちが、レムオンの命でアウラたちに向かうも、あっさりと倒されてしまう。
まっすぐな、曇も陰りもない透き通った目がレムオンを射抜く。まるでその目に映した汚れたもの、邪悪なものを灼きつくすかのような鮮烈な目から、レムオンは視線を逸らした。
そんな目で、見ないでくれ。
アウラがレムオンに近づこうとしたとき、魔人が現れた。何が起こっているのか、レムオンにもその場の誰にもわからなかった。ただアウラたちが魔人と戦うのを傍観しているしかなかった。
「魔人を操るなんて芸当、あきらかに人間技じゃない。レムオンじゃないな」ゼネテスのつぶやきに応じたのは、意外な人物だった。
「そうかしら? ダルケニスなら、たやすいのではなくて」
どこからのもなく現れたアトレイア。この惨状にも微笑をたたえている。だが彼女の異様さよりも、全員の関心はレムオンに向かった。
「アリエナイ公が、あの汚らわしいダルケニス?」
動揺する竜騎士たち。その目は怯えと嫌悪に染まっている。
「ちがう! 俺はダルケニスなどでは」
「おやおや、ウソはいけないなぁ」くすくす笑いながらシャリが現れる。「これが君の真実の姿さ」
シャリが言い放ったとたん、レムオンの内側から強い衝動がこみ上げてきた。まるで熱に浮かされたように頭が働かない。レムオンが視線を向けると、そばにいた竜騎士たちは一様に引き立った表情になり、蜘蛛の子を散らすように逃げて行った。
「そう、あなたは闇の種族ダルケニス。人間か忌み嫌われ、迫害される運命」
追いうちをかけるようにアトレイアの声が響く。
「さ、ダルケニスとして覚醒したその力でやっちゃいなよ。にっくきゼネテスも、思いどおりにならないアウラも、みーんな壊しちゃえ」
シャリの言葉に突き動かされるように、レムオンのなかで昏い衝動が膨れあがる。
ゼネテス――前々からいけすかなかった男。レムオンが欲しいものをやすやすと手に入れてしまう男。この男をアウラのまえで殺し、その後で彼女も殺す。そうすれば彼女はもう誰のものにもならない。
どくどくと耳の奥で拍動の音がこだまする。
怒り、憎し、嫉妬――怒涛のように感情が波を打ち、目のまえが真っ赤になった。抑えれない。憎い、憎い、すべてが憎い。この感情の元凶すべてを痛めつけ、苦しませて同じ苦しみを与えてやらねば気がすまぬ!
衝動のままゼネテスに斬りかかった。散々に痛めつけられ、虫の息である相手を殺すなど造作もない。振り下ろした刃はしかし、憎き男に届くことはなかった。
「くっ――!!」
レムオンは苦渋に呻く。己の剣の軌道を止めたのはほかならぬ想い人の剣。その事実にレムオンのなかの闇がいっそう深くなる。
レムオンはその剣ごと、アウラを振り払った。ダルケニスとして覚醒した力のまえにはどんな豪傑もそう簡単に太刀打ちできない。アウラもまた、その華奢な身体を床に叩きつけた。それでもなんとか起き上がろうとする彼女の身に覆い被さった。欲求のまま、白く柔い首筋に噛みつく。初めて啜る血の味。とても甘く感じた。一度知ってしまえばもっともっとと身体が、本能が貪欲に求める。気づけば夢中で啜っていた。目のまえの獲物が誰なのかも、もうわからなくなっていた。
***
「レムオン……」
自分の声はもう、届かないのだろうか。
首筋に走る痛み。それはほぼ一瞬で、それからは急激に感覚がなくなった。身体に力が入らない。のしかかる相手を押し返す力もない。だがそのつもりもなかった。死にたいわけではない。なんとかしてレムオンを正気に戻したかった。そのためにここで抵抗したら、彼は拒絶したと受けとるかもしれない。そうなれば彼は自分のもとから永遠に去ってしまうだろうという予感があった。だからそれはできない。アウラはレムオンに手を伸ばす。震える手で、レムオンの手を握った。
「抵抗しないの? このままじゃ君、からっからに干からびて死んじゃうよ?」
愉快げなシャリの笑い声が響く。
いつもなら睨みのひとつでも利かせたいところだがそんな余裕もない。
視界が霞む。頭も朦朧としてきた。アウラは思い出していた。リューガ邸での一幕を。新月の香によって強制的にダルケニスとして覚醒させられたレムオンが暴れたとき。うずくまる彼の手は微かに震えていた。そのときアウラは理解したのだ。彼は怯えているのだ、と。こんなことをレムオンも望んでいない。彼は傷つけられることに、それ以上に傷つけてしまうことにも恐れている。正気に戻ったとき、彼はあのときと同じように深く傷つくことだろう。
アウラは彼の手を強く握りしめた。あのときと同じように。
「レムオン……お願い……正気に、戻って」
どうか怯えないで。恐れないで。あなたはひとりぼっちじゃない。
どうか、伝わってほしい。その一心で握る手に力がこもる。
「目ぇ覚ませ、この野郎!」
恫喝とともに、アウラにのし掛かっていたレムオンの身体が吹っ飛ぶ。ゼネテスがレムオンを殴ったのだ。
「つっ……大丈夫か、アウラ」
負傷をおして拳を振るった反動でよろけたゼネテスをアウラが助け起こす。
「なんだか興醒めだなぁ。行こうか、アトレイア?」
傍観していたシャリは興味が失せたとばかりに呟いた。
「無駄なことを……愚かだわ。誰も運命からは逃れられない。誰も」
アトレイアの不吉な予言が余韻を残し、クーデター事件は幕を下ろした。
ゼネテスはレムオンを責めなかった。だがその心中は複雑であろう。一人で酒を呑みに行くと言うゼネテスを見送り、アウラもまたひと足先に宿で休もうと思った。この一日でいろいろありすぎた。知己であるアイリーンとの対峙、直後にゼネテスが連行され、休む間もなく王宮に向かい、そして。
アトレイア――。
なぜ。どうして。そう問うてももう遅い。アウラはただ途方もない無力感に打ちのめされていた。世界なんて見えなければよかった――その彼女の叫びに。
目が見えるようになりたいという盲目の彼女の願いを叶えるため、闇の神器のひとつを手に入れた。しかしそれが、結果として彼女を闇に陥れたのか。いや違う。それはきっかけに過ぎない。どうであれ、自分はきっと肝心なことが見えていなかったのだろう。理解していなかったのだ、アトレイアの心にひそむ闇の深さを。別れ際にいつも寂しそうにしていた彼女の姿を思い出す。なぜもっと彼女のそばにいてあげなかったのだろう。もっと話を聞いてあげなかったのだろう。彼女は本当は、心優しく、感受性が強いがゆえに傷つきやすかったけれど、その分人が築かない些細な感情のかけらを感じ取ることができる子だった。決して人を傷つけることを楽しむような子ではない。その彼女は、変わってしまった。変えられてしまったのだ。たとえ選択したのはアトレイア自身であっても、あんなことがアトレイアの真の望みであるはずがない。
生き延びた王宮の者や兵士たちは、こたびのクーデターで起きたできごとにおそれおののいていた。なかでもその首謀者レムオンとその裏で動いていた王女に。あれが彼らの本性なのだと忌々しげに慄いていた。
それはちがう。レムオンやエリスがそうであったように、見えている一面がその人のすべてではない。アウラはこれまでの冒険でさまざまな人々と出会い、いろいろな出来事を経験し、わかっていた。誰もが闇を持っている。たしかにあれも彼女の一部にはちがいない。だがあれがすべてではなく、本来なら彼女の闇はあそこまで深くはなかったのだろう。とめようと思えば、彼女の心の闇の増幅をとめられたはずだ彼女が普通の女の子として幸せに笑っていられる未来があったはずなのだ。
だがアウラはとりこぼした。
すべてを救えるなどと思ってはいない。それはあまりに傲慢というものだろう。無限のソウルといえど人は神ではない。だがそれでも、手を伸ばせば届く距離にいるのなら、自分は伸ばした。それなのに、取りこぼしてしまった。
レムオン、ゼネテス。彼らは助かったものの、アウラの心は晴れない。そればかりか、いろんな感情が嵐のように逆巻いている。悲しみ、後悔、自分への憤り、やるせなさ――そういったものが綯い交ぜになってうまく言い表せない。
ふわり、と身体が浮いたような感覚がした。あれ、と思ったとき視界が暗闇に閉ざされた。
*
目を覚ますと見慣れぬ天井が映った。どうやら宿の一室らしかった。自分はベッドに寝かされていると気づく。身体を起こそうとしたが、酷く重かったのでやめた。頭も重苦しい。気分は最悪だ。
「あ、起きたのか姉ちゃん」
扉が開き、弟が入ってきた。
「大丈夫か? 姉ちゃん、丘の中腹で倒れてたんだ。それから丸一日寝てたんだぜ」
「そんなに……?」
精神的にも肉体的にも限界だったのかもしれない。
「医者に診てもらったら、貧血と過労だって。少し安静にしとけってさ」
「ここは……?」
「ロストール郊外にある村だよ。大丈夫だ、クーデターの首謀者とその関係者がまだこんなとこにいるなんて誰も思わねぇよ。それに姉ちゃんがノーブル伯ってことも意外と知られてないだろ? まぁでも、意外じゃなくて当然か。ガサツな姉ちゃんが貴族だなんてどう見ても思えな――いてっ!」
アウラは弟のおでこを叩いた。といってもさすがにいまはそんなに力が入らないので軽くこづいた程度なのだが、弟の反応が妙に大げさすぎる。
「何よ。そんなに強く叩いてないわよ、わたし」
「うっ……つい条件反射で」
何が条件反射だ。
「早く元気になれよ姉ちゃん。姉ちゃんがそんなだと調子狂う」
チャカなりに励ましているのだろう。おかげで少し元気が出た気がする。
「チャカ……」
「なんだよ姉ちゃん」
眠気が襲ってきたが、アウラは口を開く。
「わたし……あんたに変わってほしくなかったから、だから戦争に行かせたくなかった」
「……わかってる。わかってるよ姉ちゃん。でも、俺は俺だ。俺だって、姉ちゃんが貴族になるって知ったときも不安だった。俺の知る姉ちゃんじゃなくなる気がして。でも姉ちゃんは姉ちゃんなんだ。何があったって姉ちゃんは俺の姉ちゃんだし、俺は姉ちゃんの弟だよ。これからさきもずっとそれは変わらない。だろ?」
たがらいまはゆっくり休んでくれよな、そう言ってチャカは部屋を出ていった。気が抜けたアウラはまぶたを閉じて、眠気に身を任せた。
どのくらい経ったのだろう。扉が開く気配がしてアウラの意識はうっすら浮上する。だがまだ頭は睡眠を欲していて、現実と夢の狭間にいるような心地だ。
誰かが室内に入ってくる気配。チャカだろうか。誰かはベッドまで近づいてきた、ようだった。
何かがそっと首に触れる。最初はおずおずと、まるで触れたら割れてしまうとでもいうように。しばらくそうして、繊細な手は労るように付け根あたりを撫でている。しかしどうにも違和感があった。確かに触れられているのに、肌に直接触れられているのではなく、肌と手のあいだを何かが遮っているような。やがて離れたかと思うと、次は頬。今度は遮っているような感じがしない。明確なその感触に、徐々に意識が覚醒に向かって浮上し始める。だが眠気に引っ張られ完全な覚醒には至らない。今度は額だ。幼子にするように優しく撫でられる。
「……だ、れ?」
呟いたが、ちゃんと言葉になっていたかはわからない。だがアウラが目覚めたと思ったのか、相手のはっ、とする気配が伝わる。それからすぐ相手は立ち去ったようだ。扉を閉めた音が微かに聞こえた。