金色の風の軌跡

#4




 手に入らないと知ってから想いに気づくのは愚かだ。
 〝手の届く幸せにも手を伸ばそうとしない〟――空中庭園でのゼネテスの言葉を思い出す。手が届くのだとしても、手を伸ばす資格が俺にあると思うのか? 彼女を傷つけた自分に。







     4






 一人ずつ割り当てられた宿の一室。明かりも灯さずに寝台に座るレムオンの耳にクスクスと忍び笑いが聞こえてきた。
「まだ悩んでるの? 本当、君たちはおもしろい生き物だよねえ。見ていて飽きないよ」
 暗闇のなかでさらに濃い闇が広がった。なかから見知った少年の姿が浮かび上がる。
「シャリ! 貴様!」
「ねぇその願い、僕が叶えてあげようか」
「ふざけるな!」
「そんなに怒らないでよ。僕だってね、もう君のことなんかどうでもいいんだけど、アトレイアが君のこと気に入ったみたいでさ。それに、僕って悩みを抱えている人を見過ごせない質だからさぁ」
「消え失せろ、道化め」
「おぉ恐い。でも僕知ってるよ。君は昔からゼネテスに引け目や嫉妬を感じてた」
 レムオンはシャリを睨み据えた。
「そう睨まないでよ。だけどまあ、嫉妬しちゃうのも当然だよね。彼は他人を惹きつける。君がずっと片思いしていたティアナも、君のいまの想い人アウラも。女性から見れば魅力的なんだろうねぇ。ショックだったんだろう? アウラとゼネテスがいつの間にか親しくて。君の知らないところで信頼関係を育んでたんだねぇ」
「やめろ!」
 シャリの言葉を聞いていられなかった。このままでは自分は怒りのあまりどうなるかわからない。
「ふふっ。ねぇ、いま二人がどうしてるか、知りたくない?」
 何を言ってる。どうしている、とは何だ。アウラはいま部屋で休んでいる。戦争のあとに加え、魔人と戦い、さらにレムオンが血と精気を吸ったせいだろう、倒れたのだ。先刻アウラの部屋に行ったばかりだ。彼女の首に巻かれた包帯を見て、悔恨が込み上げた。覚えていないが、やったのは自分だ。我を忘れ、衝動に駆られて血を求めたことは覚えている。そして目のまえの誰かに噛みついた――あれは、アウラだったのだ。
 ゼネテスは後から追いつくと言っていたから、彼も彼で休んでいるはずだ。
「彼女が倒れたって知って、ゼネテスも彼女の様子を見に行ったんだよ」
「……」
「もうどのくらい経つかなぁ? まだ出てきてないようだけど。ふふっ、何をしてるんだろうねぇ?」
「貴様の戯言には惑わされん」
「ふぅん、そう。まぁいいや。レムオン、僕は君の味方だよ? 来たくなったらいつでもこっちにおいで。歓迎するよ」
 そう言い残しシャリは姿を消した。
 たとえシャリの言うことが事実であったとしても、自分は彼女を傷つけた。我を失っていたとはいえ愛しいはずの彼女を、二度も。
 本当は、そばにいるべきではないのかもしれない。それでもせめて守りたい。傍らに立つことを許されているあいだは。







      ***






「ん……?」
 額に微かな感触がして、アウラは目を覚ました。
「起こしちまったか?」
 額にかかった髪を払う指先をたどると、見慣れた男の顔があった。むせかえるような酒の臭い。
「ゼネテス……どうしたの? 酒場で飲んでたんじゃ……」
 起き抜けでよく回らない舌と頭で、アウラは訥々と訊ねた。
「あぁ。酒場で飲んでたら、おまえさんが倒れたって聞いてね。飛んできた」
「そう、だったの……」
 誰から聞いたのだろう。チャカだろうか。ゼネテスにはずいぶんなついていたようだし。
「ごめん……迷惑かけて。ゼネテスも、疲れてるのに」
「迷惑じゃないさ。心配はしたがね。おまえさんが無事なようで安心したよ」
 チャカが部屋を出ていったときはまだ夕方で明るかったが今部屋は暗かった。ゼネテスの顔は陰に覆われて見えない。
「ゼネテス……お酒、飲み足りてないんじゃない?」
 すでに男はこちらが酔いそうなほど強烈な酒気を纏っていた。常ならば身体に毒だからと止めているだろう。だが今夜は別だ。今回の件で辛いのは自分だけではない。特にゼネテスは今とても他人を気遣っていられるような心境ではないはずだ。だからこっちのことは心配しないで、と暗に伝えたつもりだった。
「そうだな……だがどんなに飲んだって酔えないのはわかってるんだ」
 力なくゼネテスは首を振る。彼が本心を吐露するなど珍しい。たとえ信頼する仲間にだって弱音を吐いたりしないひとなのに。酒のせいで枷が外れてるのかもしれない。
「ゼネテス……」
 しかし彼にかけてやる言葉をアウラは持たなかった。あのあとでは身体も心も擦りきれてしまっている。彼だけではない、自分も、レムオンもいまは気持ちの整理が必要だった。
「悪い……つい愚痴っちまった。こんなことおまえさんに言うもんじゃないな」
 そう言うゼネテスの声には力がない。
「ゼネテス……力になれなくて、ごめん」
「何を謝る。じゅうぶん助けられてるさ。今回のことだって、な」
 ぽん、と彼の手が優しく頭をはたいた。子どもを宥めるようなそのしぐさに、アウラは心中で溜め息を洩らす。
 アウラにとってゼネテスは冒険者としての先輩であり、信頼できる仲間であり、憧れでもあった。彼は人の心にするりと入り込むくせに、自分の懐の奥には踏み込ませない。アウラはそれが自分が頼りないと言われてるようで少し不服だ。
「じゃあな、おまえさんもゆっくり休め。俺も……もうちょい休んだら、後から追いつくからよ」
 去っていく背中を見送り、アウラは目を閉じた。