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前篇

「泥棒猫」
 そう罵る彼女の瞳は憎しみに満ち満ちていた。
 光の王女と謳われた、明るく心優しい彼女の面影はもはやない。まるでそのすべてが、偽りであったかのように。
 人間の醜悪さを目の当たりにしたことなら何度だってある。それほどに、冒険者としていろんな経験をしてきた。だけど、親交のあった身近な人のそんな一面など見たくなかった。知りたくなかった。

 レムオンが興したクーデターから数日。あれ以来アウラはロストールに近づかないようにしていた。あのときの出来事は自身が思っているる以上に堪えていたらしく、時折夢に見る。夢のなかの彼女は、氷のように冷たく、しかし暗い怨嗟の炎を宿した目でアウラを責め続けた。

「――で、どうしたんだ?」
 モンスター討伐の依頼をこなしたあと、街の酒場でひと息ついていたところにゼネテスがやってきた。未成年のアウラはひとりでカウンターでハーブティーを飲んでいた。その横に座ったゼネテスが酒で付き合い始め、軽い雑談を交わしたあとに、そうひと言訊ねてきたのだ。
「何が?」
「ここ最近、心ここにあらずって感じだぞ。今日も魔物相手に一瞬気を抜いてたろ」
 アウラは押し黙った。気を抜いていたわけではないのだが、少し気が緩んでいたのは事実だ。
「お前さんのことだから言うまでもなくわかってると思うが、一瞬の油断が命取りになることもある」
「……ごめん」
 自身の力を過信しているわけでも、魔物を甘く見ているわけでもない。格下相手でも、ゼネテスの言うように油断は禁物だ。仲間のフォローが間に合わないときだってある。わかっているのに、心にかかる靄が時折アウラの脳内を支配しては行動を鈍くさせた。
「ティアナのことか?」
 どきりとした。思わずゼネテスを振り返る。穏やかな眼差しが見つめ返していた。
「……ゼネテスにはなんでもお見通しね」
「なんとなくそんな気がしたのさ。ティアナとお前さんは仲が良かったろ」
 重い空気を吐き出すように長く息を吐いてから、アウラは大きく背を反らす。
「……自分が思ってる以上に、ショックだったみたい」
「お前さんは情に厚いからな。情に厚いのはいいことだ。人の気持ちをわかってやれる。だが情に流されるなよ。いくらティアナがお前さんの友人だったとしても」
「わかってる」
 ゼネテスの言わんとしていることは。
「わかってるの。それでもまだ、あれだけ罵られてもまだ、決心がつかない。どこかで私の知る優しかった彼女を取り戻せるのじゃないかって。負の感情は誰だって抱えてる。でも人間は、それだけじゃないでしょ? ティアナが私に見せてくれた笑顔も優しさも、嘘じゃなかった。……私、まだ現実を受け止めきれてないってことなのかな」
「いいや」とゼネテスは言う。
「お前さんの言うように、嘘じゃないさ。俺たちが見てきた優しいティアナだって、間違いなくティアナの本心さ。だがそれだけがすべてじゃない。人は誰だって醜い感情を抱えてる。大事なのはそいつに支配されないようにすることだ。だが人生ってのはままならない。ほんのちょっとのズレで、天秤が傾いちまう」
「じゃあ――もし自分が、その天秤を良くないほうへ傾くのを止められたら?」
 ゼネテスは苦く笑った。
「もちろん、誰かのひとことがきっかけで勇気をもらえることもあれば、絶望することもあるだろう。……悲しいことだが、人間が負の方向に傾くのは難しいことじゃない。人はそんなに強くはいられないもんだからな。俺だってお前さんだって、一歩間違えればティアナのようになっていた可能性はある。
 いつのまにか負の方向に傾き出した流れを修正するのは容易じゃない。お前さんだってやることがたくさんあるだろう? そのすべてを脇に置いて、ずっと誰かひとりの人生に寄り添って気にかけてやることができたか?」
 ゼネテスの問いにアウラは答えられなかった。
 アウラはたくさんの仲間とともに大陸中を東奔西走してきた。闇の神器集め。エンシャントのロストール侵攻を阻止。アンギルダンの処刑を回避するために動き、エステルを救出し、ラドラス墜落阻止……。それらはすべて、アウラが自分の意志で関わろうとしたからに違いないが、そのすべてを投げ打ってでも、ティアナを選べたかといえば、そうはできなかった。
 ティアナが大切でなかったわけではない。ティアナを失いたくはなかったが、他のすべてを引き換えにすることもできなかった。
「私は……どうすればよかったんだろう」
 ロストールに行くたびに、ティアナやアトレイアには必ず会いにいっていた。だがいつのまにか、ティアナの様子がおかしいことには気づいていた。気づいたが何もできなかった。そのときにはもう、遅かったのだ。
「お前さんはやれるだけのことをやったよ。お前さんに救われた奴は大勢いる。俺もそのひとりだ。だが知っておいてくれ。人間ひとりにできることなんてそう多くない。すべてをどうにかできるなんて思うな。たとえお前さんが無限のソウルでも。手に届く範囲は限られてるし、背負える荷物にも限界はあるんだ」
 それでもうつむくアウラにゼネテスは続ける。
「だからそうなんでも一人で抱え込むな。俺だって一緒に背負ってやる。仲間はそのためにいるんだぜ」
 もっと寄りかかっていい、とゼネテスは言う。
「私、けっこう重いよ?」
 ようやく顔を上げると、アウラは小さく笑って言った。
「かまわんさ。俺がそんな貧弱に見えるか?」
 そう言われ、笑みがこぼれる。一緒に目からこぼれ落ちてくるものを、アウラはとっさに手で擦って隠した。みっともない。何のための涙だと。ティアナのことを考えると泣いてなんていられない。何も考えず中途半端に荷物を背負ったばかりに、天秤は思わぬほうへ傾いたのに、自分が泣く資格なんかない。
「隠さなくていい」
 ゼネテスは言った。
「我慢しなくていい、今くらいは」
「でもっ――」
 隠すように目元を擦っていた手をとられたと思ったら、もう一方の手に背中を押され。いつのまにかゼネテスの胸板に押しつけられていた。
「俺はお前さんを責めたりしない。お前さんの仲間も。みんな味方だ。ちゃんとお前さんのことをよくわかってる」
 慰めるように、わからせるように、頭をぽんと優しく叩かれる。
「言ったろ。荷物を背負うと。お前さんに責任があると言うなら、俺にも責任がある。いや、俺のほうにこそな。俺はティアナの婚約者だったからな……形だけだったが。だがお前さんよりつきあいは長い。責任が重いのは俺のほうだろう。もっと彼女を気にかけてやれるべきだった」
「ゼネテス……」
「ティアナの叔母貴に対する誤解を解けていたら、結果は変わっていたかもしれないな。いまさら遅いがね」
「誤解? それって――」
 以前ティアナが打ち明けてくれたことがある。彼女は実の母であるエリスを嫌っていた。その一番の理由は、自分は国王の実の娘ではなく、エリスとほかの男のあいだにできた子供ではないかと疑っているからだった。ファーロスの女狐とも称される王妃に愛人の一人や二人いてもおかしくはない、自分は偽りの王女なのではないか、と。
「もちろん、ティアナは正真正銘、叔母貴と国王の娘だ。叔母貴にだって愛人はいない。国王とは政略結婚ではあったが、あの人はああ見えて、何よりも家族を大事にする人だった」
「だったらどうして、そう伝えてあげなかったの?」
 つい責めるような口調になってしまった。
「俺が言ったところで素直に信じたと思うか? 姫さんは俺に対して素直じゃなかったからな」
 たしかにティアナは最初、ゼネテスを酒と女と博打にあけくれて王宮に寄りつかないと、本人のまえでも隠しもせず嫌味を言っていた。だがそれは好意の裏返しであることを、アウラは知っていた。もちろん、ゼネテスもだろう。
「ティアナは叔母貴を嫌っていたが、叔母貴はティアナを愛していた。叔母貴は愛情表現が下手な人なんだ。夫にも娘にも伝わってなかったのは皮肉だがね。ティアナの叔母貴に対する印象を変えないかぎり、誤解を解くのは容易じゃなかったろう。二人の仲を俺がうまく取り持てられればよかったのかもしれんが――」
 ゼネテスが言うように、彼ならできたのではないかとアウラは思った。過ぎたことを言っても仕方のないし、ゼネテスを責める権利もないが。
「……ティアナは聡いからな。そうなったらきっと気づいちまうだろう。俺の叔母貴への気持ちに」
「え?」
 アウラは思わず顔を上げた。ゼネテスの苦笑が見えた。
「勘違いするなよ? 叔母貴とは何もない。俺が勝手に憧れていただけさ」
「……そうだったんだ」
「だが俺がそう言ったところで、そんな想いを抱えてるやつの言うことなんて、信用ならんだろ。特にティアナからしてみればな」
 だから結局ティアナの誤解を解くことはできなかったのだろう。むしろ余計に猜疑心を強くさせるだけかもしれない。
 もう、戻れないのだ。

 鬱蒼とした夜の森のなかをアウラはひとり歩いていた。これは夢か、現実か。あたりに立ちこめる薄霧が、すべての輪郭をぼかし、夢とうつつの境界線をも曖昧にする。静かだ。自分の足音だけが響き、ふくろうや虫の音すらも聞こえない。
 すると目の前に人影が現れた。正気のない青白い顔、太陽のように眩しかった金の髪は月の光に照らされ白銀のように輝いている。薄い笑みを浮かべ、幽鬼のように佇む少女。
「ティアナ……」
「気安く呼ばないでくださる?」
 少女の顔から笑みが消え、見たこともないほど冷たい表情になる。
「不思議ね。とても清々しい気分よ。何もかもから解放された気分。あんなに苦しかったのが、許せなかったのが嘘みたいに。闇ってこんなに居心地の良いものだったのね。どうして気づかなかったのかしら。アウラ、あなたには感謝しているわ。わたしを解放してくれたんですもの」
 違う。あのころのティアナはこんなことを望んでいたわけじゃない。
 今の彼女は何もかも諦め、自暴自棄になっているだけだ。
「光の王女、なんて言われてどんなに堅苦しかったことか。当然よね、光なんて偽りだったのだから。だって、今のほうがずっと心地いいんですもの……!」
「本当に、そうかな?」
「……何ですって?」
「今のあなたはそう思おうとしてるように見える。あなたは『光なんて偽り』と言ったけど、そんなことない。あなたが私に見せてくれる優しいティアナも、本物だったよ。あなたが『堅苦しかった』のは光が偽りだったからじゃなくて、周囲の人たちにそんなイメージを押しつけられて、そのとおりに演じ続けるのが、堅苦しかったんだと思うわ」
「何を……いまさらわかったようなことを!」
 ティアナの顔が憎悪に歪む。
「あなたに何がわかるの。わたしと同じ人生を歩んできたわけでもないくせに!」
 ざわざわと空気が不穏なものになっていく。
「光の王女、女狐の娘、周囲はレッテルを貼りたがる。光の王女と褒めそやすいっぽうで、どれだけ愛想良く振舞おうとしょせんはあの女狐の娘だ、裏がある、男を翻弄し操るのだと……。
 私がどんなに粛々と振る舞おうが、権謀術中の世界に生きる貴族たちも、噂好きのメイドたちも、しょせんみんな同じよ。身分の違いだけで、中身は下衆でくだらない、型に嵌めて人を見ることしかできない浅はかな連中。
 王女には責任があるの。平民は宮中での華々しい暮らししか想像できないでしょうけど、王女に自由なんてない。あなたから外の世界や冒険の話を聞くたび、自由にどこへでも行けるあなたが羨ましくて、妬ましかった……!」
 アウラの話をねだっては、いつも楽しそうに聞いてくれたティアナ。王宮を出ることが叶わないから、あなたの話が楽しみだと言ってくれた。あのティアナはもうどこにもいないのか。
「ふふ……でももういいの。だって私はそこから解放されたんですもの。私を縛り、戒めるものは何もない。母が死に、王宮は堕ちた。終わりよ」
 ティアナはアウラに視線を戻すと、仄暗い笑みを浮かべた。
「あとはあなたとこの世界が消えてさえすればね」
「……あなたが憧れていた〝外の世界〟を壊すの?」
「私が見ていたのはしょせん上辺だけ。憧れるあまり、綺麗で美しいものしか見えていなかったの。外の世界も宮中も変わらないわ。愚かで醜く欺瞞に満ちている。あなたたちのおかげで目が覚めたのよ」
「ティアナ……」
 そう考えるほどに、彼女の心は追いつめられていたのか。
「その目、やめてくださる? 哀れでかわいそうなものを見る目。自分のほうが優位に立っているとでも錯覚してるのかしら。そうね……ゼネテスやレムオンもあなたのもの。二人とも闇に堕として利用するつもりだったのに……でももういいわ。あんな役立たず、あなたにくれてあげる」
 アウラはただ悲しかった。それがティアナの言う同情や哀れみなのかはわからない。ただ、あの眩しかった笑顔、優しさ、彼女の心のあたたかかった部分は、凍てついてしまったのがわかった。
 だがどれだけティアナに罵られようと、アウラには罵倒し返すことはおろか、ティアナに対して怒りや憎しみを感じることはなかった。彼女は大切な友人の一人であったのに、彼女が一番助けを必要としていただろうときに気づけなかった自分への責め苦なのだ。
「さぞ私が憎いでしょう?」
 ティアナは笑う。美しい笑顔で。
「いいわよ、どうぞ憎みなさい。好きなだけ嫌いなさい。そうやって、あなたも堕ちていくのよ」
「憎めないよ」
 アウラは静かに言う。
「ティアナのこと、憎めないよ。だって、ティアナのこと好きだったから」
「はっ、好きだったですって?」
 叫ぶと同時に、ティアナの両手が伸びてきた。すばやくアウラの首に絡みつく。
「この期に及んで綺麗事? それともそんなに善人だと思われたいのかしら。それをなんと言うか知っていて? 偽善というのよ。まるで昔の私を見ているようで腹が立つ!」
 違う。ティアナの優しさは作りものではない。アウラに向けてくれた笑顔も。自分だけに打ち明けてくれた悩みも。あのすべては本物だった。それとも、アウラ自身がそう思いたかっただけだったというのか――。
 締めつけられた首が苦しい。呼吸ができない。だがそれ以上に、心が折れそうだった。
「誰もが優位に立とうと嘘をついたり、本性を隠して善人を装う。虚飾、傲慢、嘲笑……どす黒く醜い本性を平気で露わにするくせに、自分のそれは認めようとせず他人を非難してばかり。宮中はそんな奴らでいっぱいだったわ。そんな中にいれば自分も……嫌でも醜く染まっていくのよ。それが嫌で嫌でしかたなかったけど、自分の心が醜くなるのを止められなかった……逃げることもできなかった。
 あなただって、本性はそう変わらないでしょ? いったいどうやってゼネテスやレムオンを誑し込んだのかしら? あなた、故郷の村を統治してたレムオンの部下の圧政に苦しんでたそうね? シャリから聞いたわ。同情でも買ったのかしら? いずれにしろ、狡猾な淫婦ね……!」
 頭が重い。目の前が霞んでいく。苦しさのあまり、ただ反射的に首を絞めつける手を離そうとしていたが、頭の片隅にあった感情がアウラにある行動を促した。
 アウラは抵抗をやめ、ティアナの手をつかんでいた両手を離した。急に脱力したアウラに動揺した様子のティアナは手を緩ませた。
「……いよ」
 息苦しさのなか、アウラは必死に声を出す。ティアナの拘束が緩んでいるいま、伝えたかった。届かなくてもいい。でもこれだけはわかってほしい。ティアナがそれを望むなら、わたしを裁くことで気が晴れるなら――構わないと。
「いいよ……そ……で……なたの、気がすむ、なら……」
「どういうつもり? 私に殺されても構わないと言うの?」
 ティアナはふっ、と笑い飛ばした。
「ずいふんと殊勝だこと。このまま死んでも構わないと? それとも……何か魂胆でもあるのかしら? 私を騙して裏切ったあなたのことですものね」
 疑心の塊になっているティアナ。いまの彼女に何を言ってもきっと届かないだろう。それでも、とアウラは強く思った。どう受け取られようが構わない。わたしはわたし。ティアナのなかのわたしがどうであろうと、わたしの想いが正しく受け取られなかったとしても、彼女のことを好きだった気持ちは真実なのだから――
 それがかけらほども伝わらないのなら……もう、どうでもいい。たとえここで死んだって、ティアナがそれで満足するのなら。もちろんそれで彼女を傷つけた事実がなくなるわけではないし、彼女の闇が晴れるとも思えないが、ティアナの圧倒的な憎悪に立ち向かう気力をアウラは失っていた。
 このとき完全に、アウラはすべてがどうでもよくなっていた。仲間のことも、世界のことも。
 無限のソウルと謳われようが、たったひとりの娘すら救えなかった。その娘の手にかかるのなら、それも運命だろう。きっと、罰なのだ。罰は甘んじて受け入れるのが、彼女にしてやれるせめてもの――。

「興醒めね」
 ティアナは首を絞め上げていた手をぱっと離した。アウラはその場でくずおれ、激しく咳込む。
「何の裏があるか知らないけど、あなたの魂胆には乗らないわ。あなたは私の用意した舞台の上で絶望して息絶えるのだから。それまでせいぜい、つかの間の生を噛み締めるのね」
 喘ぐアウラを見下ろしながらティアナは艶やかに微笑んでいる。その背後に黒い霧のような闇が現れ、彼女の姿を覆い隠すと、霧が晴れたあとには消えていた。ひどい疲労感に襲われながらその様子を眺めることしかできなかったアウラは、やがて意識を手放した。