鏡花水月



 彼は今日もそこにいた。
「よぉ、また来たのかい」
 夜の帳が下りるリューガ邸の門の前。城壁にとりつけられた蝋燭の灯りが青年の姿を朧げに照らし出す。
「毎度俺なんかに会いに来るなんて、あんたも物好きだな」
 青年は皮肉げに笑う。彼の二人の妹が心配していると伝えたことがある。だがとたんに彼は去ってしまったので、それ以来彼の妹たちのことは話題にしないことにしている。
「意外だな。あんたは絶対俺のこと嫌ってると思ってた。もしかして、俺の顔が好みとか?」
 とりあえず、呆れた視線を返しておく。
 たしかに細面の整った顔立ちではあるけど、彼のこういうところが癪だ。
 他愛のない世間話をするうちに眠ってしまい、いつの間にか朝になっていることもしばしば。それでもこのひとは途中で帰ってしまうこともなく、起きるまでそこにいてくれる。皮肉や揶揄に塗れた振る舞いや言動の奥に隠された優しさに、もう気づいてる。
 ロストールで闇の巨人に襲われたとき、初めて彼を見た。その後も、彼とはたびたび邂逅した。ノーブル伯である自分にレムオンを売るよう取引を持ちかけられたり、ギルドの依頼の途中、配達物を奪われたこともあった。金のために汚い仕事ばかりを請け負う彼にいい感情は持っていなかったが、どんな仕事を受けようと個人の自由だし、人それぞれ事情があるだろう。他人が口を挟むことではないし、相手の事情を深く詮索する気もなかった。だから彼に対して特別恨むことも憎むこともしなかった。自分にとって、それほど強い感情を傾けるほどの相手ではなかったのだ。そのはずが縁とは奇妙なもので、表面的にしか知りえなかった彼の裏側を、彼の妹たちから聞いたことで今ここにいる。同情、憐み。きっかけはそんな感情からだ。彼はきっとそんなものを求めていないだろう。どんな事情があれど彼のすることは許せない。そう切り捨てるのは簡単だ。だがそうしなかったのは、道徳や倫理観よりも、自分の直感と感情を優先したからだ。最初に彼を見たときから何となく感じていた、彼はただの小悪党ではないという直感。そしてそれは間違いではなかった。今は彼を理解したい、力になりたい、救いたい。それが無理なら、その孤独を少しでも癒したいと思っている。
 彼を深く知ってしまった今はもう、自分の感情に言いわけできない。
 彼が妹たちを遠ざけているのは彼の身体に掬う呪いが原因なのだろう。姉妹を大切に思うがゆえに彼は関わりを絶とうとしている。孤独のうちに消えようとしている。
 いつの間にか朝を迎えていた。小鳥のさえずりのなか、すぐそばで声が聞こえたような気がしてうっすらと瞼を開け、首を巡らす。こちらを見つめる顔があった。
「わっ、なんだよ。起きたのか……」
 ツェラシェルは慌てた様子で仰け反る。
 目を覚ましたときに聞こえた声を思いだし、さっき何か言わなかったかと訊ねると「べつに……何も言ってねぇよ」と顔を背けられた。
 気のせいだったのかもしれない。うんと伸びをすると、スカートの土埃を払い立ちあがる。そろそろ宿に戻らないと朝起きて自分がいなかったら仲間が心配することだろう。
「明日も来んのかい?」
 去り際に訊ねられたのは初めてだ。
「俺はいないかもしれないぜ?」
 それでも来るのか、と。
 毎夜そこにいる彼。毎夜訊ねる少女。それを当然のように思い始めたのはいつからか、どちらが先か。少女が彼に会いに行っていたのか、彼が少女を待っていてくれたのか。
「あー……意地悪いこと言ったな。ちっ、そんな顔されるとな」
 そんな顔とはどんな顔だろう。ツェラシェルは罰が悪そうな顔で目を逸らす。いったい自分はどんな表情をしていたのかわからない。
「ま、好きにしな。俺はたぶん明日もここにいる……たぶんだけどな」
 そう言い捨てて彼はそそくさと去っていった。
 何か自分にできることはないのだろうか。自ら孤独のうちに姿を消そうとする彼に。
 いつかゼネテスが言っていたことを思い出す。
「たとえば目のまえに死ぬ運命の人間がいたとする。そいつはもしかするとおまえさんの敵で、腕の立つやつかもしれない。味方でも、何かの事情で死を覚悟しているのかもしれん。どっちにしろ助けることは不可能に近いとする。だがお前さんなら……無限のソウルならできるかもしれない。倒すこと、救うことを越えた、第三の選択を選び取れるかもしれない」
 無限のソウルの可能性――自分にそんな力があるなら今こそ使いたい。救いたい。だが実際は、ツァラシェルの呪いを解くことも、楽にしてやることもできない。無力だ。


   ◆



 今日も彼女はここに来た。
 いつからかツェラシェルは、自分が少女の訪れを期待していることに気づいた。
 最初は相手にしなかった。妹たちに頼まれて彼女がここに来ていると知ったとき、ツァラシェルは立ち去った。だがそのあとも、彼女は毎夜ここに来た。何も言わず、少女はただそばにいた。妹たちのことを一度だけ口にしたが、ツェラシェルがすぐに立ち去ってからはいっさい口に出さなくなった。それからは朝までそばにいる。奇妙な逢瀬だ。女が男のもとに毎夜通いつめる。これだけ聞けば誰もが艷事を連想するだろうが、実際はそんな空気はまったくない。害がないならと放っておいたが、そばにいるとどうも気になる。
 少女はおとなしそうな外見とは裏腹にはっきりものを言う。大胆不敵、かと思えば慎重なところもあり、神経が図太くもあれば繊細な面もある。小賢しくもあり愚鈍でもあった。彼女と話していくうちに知る新たな一面に、もっと知りたいという欲求が出てくるが、もうすべてが手遅れだ。
 ひとり行方をくらまして、呪いがこの身を喰らいつくすのをただ待つつもりでいた。妹たちにこれ以上心配をかけたくなくて苦しみあがく姿を見せたくなくて――それなのに。
「毎度毎度俺なんかに会いに来るなんて、あんたも物好きだな。ゼネテスやレムオンだけでなく俺まで懐柔しようってのかい?」
 愚鈍に見えて実は鋭いところもある彼女だ。そんな計算高い女ところがあったっておかしくないが、自分の価値をそれほど高く見積もっているようでもない。好意には気づいていても、それが恋愛感情だと気づいているかはまた別の話だろう。我ながら意地の悪い訊き方と自覚しつつも、これがツェラシェルの性分だった。
 少女は意味がわからないという顔をしている。
「……自覚なし、か。それとも計算?」
 口をついて出るのはそんな憎まれ口ばかりだ。だが彼女はなかなかに人たらしであるとは、思う。あの冷血の貴公子と称され、僅かな身内にしか心を開かなかったレムオンも彼女には心を許しているようであるし。誰ともつるむことをしなかったゼネテスも、今は彼女と行動を共にしているらしい。彼女にはたくさんの仲間がいる。彼女にはどこか、不思議と惹かれるものがあるのだ。自然と彼女のもとに人が集まっていく。それは奇妙な縁であったり、彼女が自ら首を突っ込んでできた縁でもあり。いたって平凡な、どこにでもいる娘に見えるのに。
 これも無限のソウルの持ち主故か。
 ゼネテスもレムオンも大事な仲間だ、とむっとした様子で少女が言い返す。
「仲間か。仲間、ね……あちらさんはそうは思ってないかもよ?」
 そう言えば、少女は悲しそうで不可解そうななんとも言えぬ顔つきで、どういう意味だと訊いてきた。
「あぁ違う。あんたが思ってるような意味じゃない。何て言うかな……ただの仲間とは思ってないかも、って意味だ――って、何も敵に塩を送ってやることもないか」
 最後のほうはひとりごとになってしまったが、少女はますます意味がわからないというように怪訝な顔をしていた。

 どれほどの逢瀬を重ねただろうか。
 すっかり見慣れた少女の寝顔。その頬に触れることができたら――だがそれは叶わない。指先ひとつ動かすことすら、呪いに蝕まれた身体が許さない。がたがたの身体を魔法でごまかして動くように見せているだけだ。呼吸ひとつすら痛みをともなうくせに表では平然としてみせる。
 いまは呪いではない別の痛みがツェラシェルの胸を軋ませる。
 もっと早く出会っていたら――いや、いっそ出会わなければ。こんな思いは知らずに、未練を残したまま逝くことにもならなかったろうに。
「バカだな」
 自分も、この娘も。
 最初はただ死を待つつもりだったが、やめた。シャリの話で考えが変わった。虚無の剣――それを使えば何も残すことなく自分は消える。誰の記憶にも残らない。生きた証さえも。
 このさき少女は誰かと出会い、そして恋をすることもあるのだろう。そんな、あるかもしれない未来を想像して嫉妬する。
 すべてが滑稽だ。だが少女への想いは、本気だった。
 身体をかがめ、眠る少女に顔を近づける。唇同士を触れそうな距離まで近づいて、踏みとどまる。
 ツェラシェルは身体を起こした。
 これ以上見つめていると決心が鈍りそうだ。
「あんたと……もっと生きてみたかったよ」


END