戦士の休息

 さまざまなことがあり、怒濤の日々を駆け抜けてきた。そんななかでも、ここを訪れるとふっと抱えていた荷物が軽くなったような気がして妙に落ち着く。
「いいんですよ。飛び回ってばかりでは疲れてしまいますからね。肩の力を抜いて、羽を休めることも時には必要です」
 鬱蒼とした森に囲まれた屋敷――通称猫屋敷。その主であるオルファウスはいつも柔和な笑みで歓迎してくれる。とはいっても今は猫の姿になってしまっているので、笑顔も何もないのだが。物腰柔らかでのんびりとした雰囲気ながら、どこか読めない人物であるのは猫になっても変わらない。
 その彼は今、屋敷の庭――といっても森の中の屋敷ゆえ、どこからがどこまでを庭と呈していいものかわからないが――にごろんと横になっている。
「わたしもよく疲れたときなどは、なにもせずただぼーっと日向ぼっこしたりするんですよ」
「けっ、おまえなんていつもそうじゃねぇか。疲れるようなことなんてロクにしてねぇだろ」
 悪態をつきながら現れたのは白い毛並みに紋様のような模様を持つ猫――ネモ。
「おや、そんなことありませんよ。今でこそこんな姿ですが、少しまえまで口の悪い猫の世話で毎日手を焼いていましたから」
「どこがだよ。俺様ほど行儀のいい猫はいないぞ? 壁引っ掻いて爪研ぎしたり、よその猫と縄張り争いしたり発情期に泣き喚いたりなんてしないからな」
 オルファウスは目を細めて口を前足で抑えて背を丸める。どうやら笑っているらしい。
「それじゃ完全に猫ですよ、あなた」
 もとは魔人でオルファウスの師でもあったというネモ。彼自身からそのころの話を聞きもしたが、今の姿では想像もつかない。
 なにしろ当の本人は猫扱いを嫌っていた節があるのに、今はオルファウス が指摘するように、視点が完全に猫である。
「うるせぇっ。俺は手がかからないってことを言いたかっただけだ」
 オルファウスはますます腹を抱えて震えている。主張すればするほどネモは墓穴を掘りそうだ。
「まぁなんだ。こいつの言うことも一理ある。少しは休んだほうが身のためだぜ」
 そう言ってネモはごろりと横になる。寝そべりながら大きく仰向けに伸びをするさまは猫のそれと同じである。つい触ってみたくなって腹のあたりをそっと撫でた。
「うひゃ?! おいやめろ」
 柔らかな毛並みは手触りがよく、触っていると心地よい気分になる。
「俺は猫じゃないと、言ってるだろ! うぅ……く、くすぐったいぞっ」
 必死の訴えは無視して触り続ける。一度触ると歯止めが聞かなくなる触り心地。
「やめろと言って、るだろ……触るなら、オルファウスのやつにしろ!」
 正直オルファウスは畏れ多い。触ってもいいかと聞けばあっさり承諾してくれそうだが、それでも触りづらい。猫の姿は借り物とはいえ感覚だってあるだろうし、もとの姿を想像するとやはり……触れない。
「おいオルファウス! 笑ってないでこいつをなんとかしろ!」
「二人とも楽しそうですから、邪魔しないほうがいいでしょう」
「ついに老眼が始まったか? 俺は楽しくなんてないぞ!」
 そのとき屋敷の扉が開き、ケリュネイアが出てきた。
「父さん、ネモ。ごはんできたわよ。あら、あなたも来ていたの? どおりで騒がしいと思った」
 そういえば、屋敷に立ち寄ったのは仲間を呼び出してもらうためだったのに、未だに屋敷に入っていなかったことに気づく。
「どうぞ、ちょうどお昼なの。よかったらあなたも食べていく?」
 屋敷から漂う美味しそうな匂いに思わず頷いていた。
 昼食はシチューとパンだった。ネモとオルファウスにもシチューの盛った皿が用意されている。猫ならばミルク、と勝手に思い込んでいたが、人間と同じ食べ物を食べているらしい。しかし猫が食べても大丈夫なのか。ケリュネイアはそのあたり頓着しないのか、それともこれが常なのか、気にした様子もなく各々食べ始めている。
 自分も頂こう、とスプーンを手に取ったところで「あちっ」と声が上がった。
「もう、父さん。今は猫なんだから気をつけてって言ったじゃない」
「そうでした。今は猫舌だってことを忘れて、ついうっかりしてしまいます」
 火傷してしまった舌を揺らしながらこちらを見て茶目っ気たっぷりに言う。
「腕をあげましたねケリュネイア」
「そ、そう?」
 よほど嬉しかったのか、問い返すケリュネイアの声が若干裏返っている。
「えぇ、これなら及第点です」
「やった!」
「そーかぁ? ところどころ焦げが浮いてるし、ちょっと水っぽいぜ」
 ネモが皿をつつく。
「悪かったわね!」
「ケリュネイアも立派に家事をこなすようになって、わたしももう引退ですかねぇ。ネメアたちと旅をしていたころはそんな暇ありませんでしたからね。安心して後を任せられます」
「何言ってんだよ。今だって引退してるようなもんだろ」
 ネモの嫌味にも、のほほんと笑うオルファウス。
「まぁ、これだけ長く生きてるとすることなんてなくなってきますから。若い世代に譲っていかないとね」
 及第点のシチューを平らげたあと、紅茶を頂いて一息つく。ここにいると時間を忘れてしまいそうだ。
「どうですか? 少しはリラックスできました?」
 テーブルのうえに座り、目線を合わせて訊ねてくるオルファウスに頷いた。
「それはよかった」
 午後のうららかな日差しのなか、小鳥たちのさえずりが窓から流れ込んでくる。流し台の水や食器が立てるカチャカチャとした音……いつもは気にかけないこれらの奏でる音が耳に心地よく聞こえてくるから不思議だ。ここにはそんな、心を落ち着かせてくれる何かがある。日常の喧噪や、戦いを忘れ、穏やかに、緩やかにさせてくれる何かが。それはオルファウスの存在がそうさせるのかもしれないし、実際にこの屋敷が、普段は人間が立ち入ることのできないように外界から隔離されているからかもしれない。だがどれだけ心地よくても、いつまでも立ち止まっているわけにはいかない。自分にはまだ、やらなければならないことがある。
「またいつでも来てくださいね。歓迎しますよ」
 社交辞令ではない心からだとわかる言葉が温かく染み入った。そんな、ある午後の一日。

END