⚠︎

ヒロインがモブ男に襲われる(未遂)描写があります。苦手な方はご注意ください。


埋もれ火


 目の前には下卑た笑いを浮かべて見下ろす男の顔。
 悔しさ、怒り、憎しみ――さまざまな感情が暴れ回るなか、そのうちのひとつに、認めたくないことに恐怖があった。神魔すら相手にしてきた自分が、たったひとりの男に恐怖を抱くなんて――。

 
 ことの発端は護衛の依頼を引き受けたことに始まる。依頼を受けるかどうかでセラと揉めた。結局自分が押し切る形で依頼を受けたのだが、もともと口数が多くはないセラはいつにも増してむっつりと黙りこみ、必要最低限の会話しかしてこない。
 ――わたしは悪くない。
 困っている人を助けることの何が悪いのか。非難される謂れはないはずだ。セラのほうがおかしい。そう思い、自分から謝るつもりはなかった。セラもまた、自分のほうが正しいと思っているのだろう。互いに譲らない性格が謝るタイミングを見失い、ずるずると引きずっていまにいたる。
 唯一の救いは、今が護衛任務の最中であったことだ。第三者がいることで互いに表面上平静に会話できるし、冒険者でもあるという護衛対象の男がおしゃべりなおかげで、道中気まずくならずにすんだ。
 午後になり、空模様が急に変わり始めた。晴天だった空は灰色の厚い雲が垂れ込み始め、ぽつぽつと雨粒が降り始めたかと思うと、瞬く間に雨足が強くなった。
 少しでも雨をしのげる場所を、と森のなかを歩いていたところ小屋を発見し、しばらくそこで休憩することとなった。
 森や山の中腹にはかつてきこりや隠者が使用していた小屋があり、旅人の中継地点として今も利用されている。なかには小さな暖炉があり、そのそばの台のうえには年季の入った鍋が埃をかぶっている。壁際には食物を貯蓄しておくための壺がいくつか並んでいるが、なかは確認しないほうがいいだろう。三人寝転がるには申し分ない広さだ。
 火を起こすのに必要な薪木まではさすがに揃っていないので、調達しなければならない。
 小屋を叩きつけるほどの激しい雨音はしばらくやみそうにない。今日はここでひと晩を明かすことになりそうだ。
「薪を拾ってこよう……行くぞ」
 セラが促すと、冒険者が戸惑ったように「オレも?」と返す。
「決まってるだろう。さっさと行くぞ」
 そう言って出ていくセラに、慌ててついていこうとすると、押し止められた。
「おまえはここで待っていろ」
「えっ、わたしも行くよ」
「風邪でもひかれては敵わん。おまえはここでじっとしていろ」
 すると護衛対象者の男が口を挟んだ。
「彼女も行くって言ってるし、いいんじゃない? 手伝ってもらおうよ。人数多い方がいいでしょ」
「三人だろうとふたりだろうと変わらん」と返すセラに、「だったらべつにいいじゃん、三人でも」と男も譲らない。
 するとセラが言った。
「この季節に雨だ、かなり冷える。女が身体を冷やすのはよくない」
 このセラの言葉が決定打となり、男ふたりで行くこととなった。ふだんは男か女かで対応を変えることはしないセラだが、たまにこうして気遣ってくれるときがある。それは相棒である自分にだけでなく、相手が誰であれ変わらなかった。別段女扱いを嫌っているわけでも望んでいるわけでもないが、セラの気遣いは好ましく感じていた。
 男と女では身体的に平等ではない。セラはそういったことを無視しない人だった。男女の性差を考慮したうえで、平等に見るべきところは見て、そうでないところは彼の基準で彼なりに裁量する。それが彼なりの優しさだった。それを不平等だ、あんなに甘い、と反論する者もいる。だがセラの意志はどんなときでも一貫していた。相手を見て裁量を変えたり、好悪の感情で差別することはない。それは喧嘩中であろうと同じだった。内心ではこっちに怒りを感じているだろうに、そんな自身の感情に左右されることなく、常と変わらない優しさがある。そう気づくと、その優しさに感じ入るとともに、意固地になっていた自分が馬鹿らしく思えた。
 戻ってきたら謝ろう。そう決めて、おとなしく従うことにした。


 しばらくして戻ってきたのは護衛対象の男ひとりだった。
「はー、酷い雨だわ」
「おつかれさまでした。セラは?」
「いや、知らないな……まだ拾ってんじゃない? まあこれだけ雨が酷いと、濡れて使いものになるかわからないけどね」
 男は拾ってきた小枝の束を囲炉裏に置く。その量はひと晩を明かすのにはとうてい足りそうになかったが、セラが持ってくるぶんを期待してのことだろうか。いずれにしろ、待っていただけの自分がそれを指摘するのは憚られたので黙っていた。
 小枝は男の言うように雨水が滴っているが、降り始めてまだそう長くないのでそこまで湿っていないだろう。
「君、火の魔法は?」
「使えます」
「じゃあ同時に火を起こそう。そうすりゃ濡れててもつくでしょ」
 薪が濡れているからといってここでより強力な火の魔法を使えば薪木を一瞬で灰にしかねない。そこでロースペルの魔法をふたりで唱えることで火力を調節しようというのだ。
 男は冒険者だけあってさすがに手慣れている。ふたり同時に火のスペルを唱えると、ちょうどいい大きさの炎が薪木についた。
 暖かい――冷えきった身体にじんわり染み渡る。濡れた服を着たままでいるのは気持ち悪いが、あいにく替えは用意していない。道中ではモンスターとの戦闘も考慮して荷物は最低限の物しか持たないようにしているのだ。羽織っている亜麻布のマントで我慢するしかない。
 人ひとり分くらいのあいだをあけて、男のとなりに座った。
 男はいやに静かだった。道中ではおしゃべりだったが、今は話しかけてくる気配もない。さすがに気まずくなって話しかけようと振り向けば、正面にいる男がじっ、とこちらを見ていた。余計に気まずい。
「あの……?」
「ん? 何?」
 男は愛想笑いなのか、薄く笑みを浮かべている。
「えーと……わたしの顔に何かついてます?」
 そんなはずはないと思うのだが、男がじっと視線を向けてくる理由を遠回しに聞いてみた。すると男は笑いまじりに言った。
「何で? ついてないよ。ただ寒そうだなって見てただけだけど?」
 まるでこちらが自意識過剰だとでも言いたげに返される。
「あのセラって男、彼氏?」
「えっ」
 予想もしなかった質問に、一瞬言葉に詰まった。
「ち、違います。セラとは、そんなんじゃ……」
「へぇ、そうなんだ」
 自分で聞いておきながら男は気のない返事で応じる。
「じゃあさ、恋人っているの?」
「……いません、けど」
「そうなんだ」
 間を持たせるための、意味のない会話かもしれないが、なんだか居心地が悪い。男から視線を外し、くゆる炎に目を向けた。
「それにしても彼、過保護だよね。君はあのネメアにも匹敵するくらいの英雄だっていうのにさ、大雨なんかで大げさじゃない? 俺だったら君のこと、ちゃんと認めてあげるのにな」
「セラはわたしの力を認めてくれてると思います。自分にも他人にも厳しいけど、本当は相手のことを思いやれる人なんです。……わかりにくいけど」
「ふぅん」男は興味がなさそうに相槌をうつ。
「ところでさ、さっきから気になってたんだけど、それ、脱いだら?」
「え?」
 思わず相手を見た。脱ぐ、とは何を。
「それだよ、胸当て。窮屈そうだなと思って。もしかして服だと思った? やだなぁ、そんなわけないじゃん」
 過剰に反応してしまった自分が嫌で、恥ずかしかった。
 雨水が鎧の隙間に入り込み、濡れそぼった服の感触が気持ち悪い。
 外して火にあたったほうが、服も乾きやすいだろう。替えの服でもあれば男に後ろを向いてもらって着替えるところだがないものはしかたない。
 マントをはらい、装備をすべて外してラフな布服のみとなる。一気に身体が軽くなって、気持ちも緩んだような気がした。
「寒くない?」
 耳元で聞こえた声に驚いて振り向くと、すぐそばに男の顔があった。いつのまにこんな近くに……。
 思わず身を引いて距離を取ろうとするが、何かに阻まれる。
 腕だ。いつのまにか、こちらの背後まで伸びていた男の腕が背に当たったのだ。目のまえには男の顔があり、隣は暖炉、背後は男の腕に阻まれ、すぐには身動きできない。まだ何をされたわけでもないが、さすがにこの状況に身の危険を感じた。
「寒いだろ? 温めてやろうか?」
「何言ってるんですか……やめてください」
 相手の胸板を力強く押し返す。だがその腕を取られ、引き寄せられた。
「いいじゃん。どうせ雨が降り止むまで動けないんだ。暇つぶしに楽しいことしようよ、ふたりでさ」
 背中が叩きつけられ、痛みで息が詰まった。床に押し倒されたのだ。痛みに堪えて起き上がろうとしたとき、男がのしかかってきた。男はすばやく片手でこちらの両の手首をひとまとめにして地面に縫いつけた。すかさず足を振り上げ男の腹を蹴り上げようとするも、もう片方の腕によって封じられてしまう。
「おっと、無駄な抵抗はするなよ。おまえが世界を救った英雄様で『竜殺し』とまで呼ばれてるのは知ってるが、どうせおまえひとりの手柄じゃねーだろ? どれだけ強かろうがしょせんは女、鍛えあげた男の腕力には勝てねーよ」
 得意げに高笑いする男。さすがに男も冒険者なだけあって、それなりの強さがある。
 ――甘かった。護衛対象とはいえ、接近を許してしまうべきではなかった。まったく警戒していなかったわけではないが、それでもまさか自分がそういう対象として見られているとは、この状況に至るまで思いもよらなかった。最初から警戒心を露わにすれば、相手が不愉快に感じたり、自意識過剰と一笑に伏されるかもしれないなどという考えがよぎってしまったのだ。もちろんこれが一般人の男なら、組み敷かれたあとであっても先の攻撃でじゅうぶん効果はあったはず。だが相手は同じ冒険者。鍛えた者同士でも、この男が言うように男と女では膂力の差は否めない。もし相手がボルダンなら、この体勢でまず勝ち目はない。掴まれていないほうの腕を使い、手刀打ちで相手の首をなぎ払おうとする。
「はっ、やるねぇ。さすがに、そこいらの町娘とは違うなぁ!」
「あぐっ」思わず口から呻き声が漏れた。
 男が腕を水平にしてこちらの首を押さえつけたのだ。顎が仰け反り、喋ることはおろか、呼吸すらしづらい。男の太い腕は首だけでなく両肩も押さえつけ、腕を上げられない。両足はいつの間にか、男の足によって押さえつけられていた。身をよじり必死に逃れようとするが、両肩は押さえつけられ、両足は男の足にガッチリと挟まれびくともしない。こちらの動きをやすやすと封じてみせた男に、体術に長けているというよりも手慣れている感じを受けた。先ほどの科白といい、以前にもこんなふうに女を襲ったことがあるのかもしれない。そんな人間と知っていれば、護衛なんて引き受けなかったのに。
「暴れるなよ? おとなしくしてりゃあんたもイイ思いができるんだからさぁ」
 男が空いたほうの手で濡れそぼった衣服に手をかけてきた。
「やめて! 離せ!」
 大声をあげて必死に身を捩り、抵抗する。これにいらついた男は舌打ちし、「おとなしくしろ!」と拳を振りあげた。それが顔に当たる寸前、歯を食いしばって顔を背けた。頬に衝撃が走る。口内が切れたのか、血の味が広がった。本当は避けたかったが、拳が振り下ろされるわずかなあいだに首を少し動かして鼻や目への衝撃を避けるのがやっとだった。
「暴れんなクソアマ! ちっきしょ……腕マジいてー」
 男は血が滲み出た腕を見て顔を歪める。
「これ以上ブスにされたくなきゃおとなしくしてろ!」
 悔しい――。
 戦場で戦ったことや魔物相手にも引けを取らないのに、それが今や男ひとりに組伏せられているなんて。何より腹立たしいのは油断してこんな状況を招いてしまった自分自身。セラからはよく「おまえは甘い」「お人好しすぎる」「もう少し他人に警戒心を持て」と常々言われてきたけれど、本当にそのとおりだ。
 生まれて初めて村を出て、セラや多くの仲間たちと旅をしてきてはや数年――世の中を知ったつもりでいた。でも、まだまだ甘かった。
 情けなさのあまり、涙が出そうになる。
「おまえも本当はこうされたかったんだろ? わかってんだぜ? そんなカッコして自分から誘っといてさぁ!」
 そうして男は身をかがめ、耳元で囁いた。
「淫売」
 衝撃すぎて、思わず抵抗を忘れた。
「俺は誘いに乗ってやっただけだよ」
 だから俺は悪くない。いっさいの責任はおまえにある。自業自得だ。そう言いたいのか。そうやって自身の行いを正当化しているのか。
 むろん、こちらの意識も足りなかった。服が濡れて思いのほか透けてしまっていたのに、それが男にどう見えていたのかということに気が回らず、警戒が足りてなかった。数多の戦いでついた筋肉や傷の痕は、およそ年頃の娘には似つかわしくないもので、少しだけコンプレックスに感じていた。そんな自己評価の低さが自分の身体に欲情する者がいるという認識を鈍らせた。
 だからといって、こんな身勝手で理不尽な暴力が正当化されていいはずがない。
 悲鳴のような音を立てて服が引き裂かれた。こちらの心情などおかまいなしに、男はそのまま服を剥ぎ取ろうとしてくる。だが濡れた服は破りづらいのか手間取っており、両手を拘束しているほうの手の力が緩んだ。今だ――ショックを受けている場合ではない。両手にありったけの力を入れて男の拘束を剥がす。すぐさま自由になった手で、男の両目めがけて指を突き刺す。
「ぐあぁ! 目がぁああ!」
 痛みにのけぞる男。ようやくのしかかっていた男の身体から解放され、すぐさま立ち上がる。目を抑えて呻きながらも、男も立ち上がった。
「この野郎……よくも!」
 男はまだ目を痛がっていたが、曲がりなりにも冒険者を名乗るだけはある。両目から血を流し、赤く染まった両眼で睥睨してきた。
 返ってそれで冷静になれた。普通の娘なら男の形相と迫力に、竦んでしまったかもしれない。だが戦に慣れた娘には、こちらのほうが好都合だった。傍から見ればさぞおかしな理屈だろう。身体を開かれる恐怖より、戦闘の恐怖のほうがましだなんて。だが未知の恐怖より、既知の恐怖のほうが対処に慣れているぶん、立ち向かいやすかった。
 先に動いたのはこちらだった。男が反撃に転じるより速く、回し蹴りを打ち込む――が、男の首にあたる寸前で足首を掴まれた。そのまま引っ張られ、バランスを崩して地面に引き倒される。かろうじて受け身をとり、頭から落ちるのを避けたものの、背中を強く打ちつけられ、再びマウントを取られる。
「クソビッチ。覚悟しろよ」
 にやりと笑う男の手が胸元に伸びる。だがその手が届くことはなかった。男の手に一瞬で赤い筋が走り、鮮血が吹き出す。
「ぐあぁっ!」
 男は叫びながら腕を抑える。
 さきほど男が目を抑えながら痛がっていたときに、とっさにナイフを拾い、隠し持っていたのだ。これはふだん使っている片手剣とはべつに、何かあったときのために装備しているものだった。ベルトに固定させていたのだが、さっき装備品を外したとき一緒に外してしまっていたのだ。今度からは何があっても身につけておくようにしよう。そう固く決心した。
「クソ……もう許さねぇクソが! 殺してやる!」
 男は床に置いていた剣を急いで掴み取り、抜いた。
「〝スロウヘッジ〟」
 ユナイトスペルの最後の一節を口にする。
「な、に……」男は剣を振り上げようとしていた動きを失速させた。
 男の腕を斬りつけたあとに、スペルを小声で唱え始めていたのだ。男が床の剣を拾い、鞘から抜いて構えるまでのわずかな時間に素早くスペルを唱え終えられたのは日ごろの鍛錬と経験値の賜物だろう。本当は相手を眠らせたり、石化させる術を使いたかったが、相手の耐性によっては効きにくい。ゆえにそれらよりはかかりやすい術で男の動きを封じることにしたのだ。精神が乱れた状態での魔法の発動は失敗するリスクもあったので一か八かの賭けではあったが。
 動きが緩慢になった男の剣を弾くと、肘を曲げ、ナイフの柄頭で顎を殴りあげた。よろめいた男は仰向けに倒れ込む。昏倒した男を小屋の中にあったロープで縛りあげた。
 そこまで終えると、糸が切れた人形のようにその場にへたり込んだ。

「おい、しっかりしろ!」
 気がつくと、セラの顔が目の前にあった。
 珍しく鬼気迫る表情をしている。
「セラ……」
 ほっとしたようにセラが表情を緩める。「気がついたか」
「あ、うん。えっと……わたし――」
 あれからすっかり放心していたようだ。恥ずかしい。
 小屋全体を見渡すが、あの男の姿はなかった。セラが追い出したのだろうか。
 状況を説明しなければと切り出そうとするも、自分の浅はかさが招いたことであるだけにばつが悪く、言葉に詰まる。その様子に見かねたらしいセラは「いい、何も言うな」と制した。さすがにこの状況で察しがついたのだろう。するとセラはすぐに顔を背けた。その様子に、すっと胸の内が冷たくなる。もしかして男に手籠にされそうになったことを怒っているのでは。悄然としていると、セラが床に放ってあったマントを拾い、羽織らせてくれた。
「これ、セラの――」
「構わん、使え」
「い、いいよ、自分のあるし。セラも寒いでしょ?」
「俺のことは気にするな。これくらいでどうにかなるほど柔な鍛えかたはしていない」
 ありがたいが、それではまるでこちらが柔だと言われているようで黙りこむと、察したようにセラが言った。
「何もお前が柔だと言ってるんじゃない。鍛えていても男のほうが筋肉がつきやすいんだ。それに……女は身体を冷やすとよくないだろう」
 目を瞠ってセラを見返す。意外だ。セラが本当は優しいことは知っているが、そんなことを言うなんて。たしかに女の身体は生命を宿すようにできているため、それだけ繊細な部分もあるだろう。だがそんな気遣いをさらっと口にするなんて。
 そう言えば、このまえミイスに里帰りしたとき、兄とセラの姉、シェスターのあいだに子供が産まれていた。セラが姉を心底大切に思っているのは知っている。そんなセラだから意外なことではないのかもしれない。
「なんだ、その間抜け面は」
 不機嫌そうに言うセラに思わず笑ってかぶりを振り「ありがとう」と返す。
 冷え切っていた心にじんわりと温かいものが広がったような気がした。
 ぱちぱち、と薪の爆ぜる音が静かな空間に響く。
 黙って薪木を注ぎ足すセラ。あれから互いに話すこともせず、沈黙が続いた。揺らめく炎を見つめていると心がだいぶ落ち着いてきたものの、セラがこちらをまったく見ようとしないことに気づく。
 やはり、怒っているのだろうか。
 自他ともに厳しいセラのこと。自分で自分の身も守れないのかと、失望してしまったのかもしれない。

 もともとこの護衛依頼はギルドからの正式なものではなかった。冒険者だと言う男がこちらを見つけて直接依頼してきたのだ。困っていた様子だったので了承したが、後から合流したセラに話すと彼はいい顔をしなかった。彼はギルドを通さない依頼を請け負うことをあまりよしとしない。
「でもこの辺は盗賊も出るし、ひとりで困ってるみたいだから」
「ひとりで旅をする冒険者などいくらでもいる。おまえはどうしてそうお人好しなんだ。少しは警戒心を持てと言ってるだろう」
「セラは他人に冷たすぎる。誰にだって事情はあるんだから」
 そんな口論のすえに、セラが押し切られる形で請け負うことになった。
 冒険者の男は社交的で女に好かれそうな男だった。そんな男の外面の良さをすっかり鵜呑みにしてしまった。
 喧嘩の原因も、こうなった要因も、すべての非は自分にある。セラの忠告を素直に聞いていれば起きなかった事態だ。
「くしゅっ」
「寒いか?」
 思わず出てしまったくしゃみに、セラがよえやくこちらを向いた。大丈夫、と答えたそばから身体の芯から寒さが走り、身震いした。
 当のセラはと言えば、いつもと変わらぬ涼しい顔で火に当たっている。いくら鍛えているとはいえこの気候で、しかもセラの服は腹がむき出しのスタイルだ。もしかして痩せ我慢してるのでは?
「セラは寒くないの? よかったらわたしのマント使って」
「必要ない」
「そう? あー……わたし、結構汗っかきだから臭うかもね」
 冗談めかして言うと、セラはそういうことじゃない、と否定した。いつになく歯切れが悪い。
「そのマントが、あいつがおまえを襲ったときに使われたのかもしれないと思うと……」
 不快だからだ、とセラは眉間に深いしわを寄せ、ぶっきらぼうに答えた。
「大丈夫だよ、わたし何もされてないから」
 セラに余計な気を遣わせたくない、とあわててそう言えば、セラの顔つきが剣呑なものになる。
「何も? その状態でか?」
 はっとして自分のいまのかっこうを見る。服は胸元が大きく引き裂かれ、その下の肌着まで破れ、肌が見えてしまっている。あわててマントを胸元でかけあわせて隠した。
 気まずい沈黙が流れはじめた。
 セラは怒っている。きっと相棒の不甲斐なさに憤っているのだ。そう思い、ごめんセラ、とこぼした。
「わたしが間違ってた。セラが正しかった。セラの忠告を聞いてたらこんなことにならなかったし、セラに迷惑かけることもなかった」
「――迷惑、だと?」
 セラが訊き返す。
「俺は迷惑だと思ってない」
「でも!」
「聞け。たしかにおまえは判断を誤ったかもしれない。だが俺とて自分がいつでも正しいなどと思いあがっているつもりはない。少なくとも、おまえの他人を思いやる心は間違いじゃない……と、俺は思っている」
「セラ……」
 だから言っただろう、俺の忠告を訊かないからだ。てっきりそんなふうに叱られると思っていた。
 意外なセラの言葉に、たしかに隣にいるのはセラだとわかっているものの、本当にあのセラだろうかと思ってしまう。
「でもわたしの判断が、この結果を招いた」
「誰にでもミスはあるし、どんなに警戒していても防ぎようのないことはある。たしかに今回のことはおまえの判断が招いたことでもあるが、この依頼を許可した俺にも責はある」
 そこで一度言葉を切ったセラは、ひと呼吸置いてからふたたび口を開いた。
「以前の俺なら、おまえのような甘い考えは切り捨てていただろう。俺は自分と自分が認めた者だけがすべてで、他人を頼らない、甘えない。他人に頼るようなやつは甘えているだけだと。その考えは相手の事情や状況を知っていても変わらなかった。だが俺は、知ってはいてもわかってはいなかったんだ。相手の感情を無視していた。俺のしていた行為は、砂漠のなかで喉の渇きに喘ぐ者に、甘えるなと突っぱねるようなものだ。自業自得だと、相手が悪いのだと断じて。人はそんなに強くはない。そんなこともわからず、俺はずっと自分の強さを基準にしてきた。だがおまえは水を必要とする人間に水を与えてやれる。助ける相手を選別したりしない。他人の努力や苦痛を嘲笑うようなやつをおまえは許さないが、それでもそいつが窮し、心から水を欲しているとわかれば与える……そんなやつだ。エルファスを救い、あのシャリですら、憎むことをせず、理解しようとしていたおまえだからな。そういう考えを、俺はいままで理解できなかった。だがおまえとの旅を通して、おまえを知っていくうちに、すこしは受け入れられるようになった――俺には真似できそうにないがな。おまえは他人の痛みや悲しみを思いやれる女だ。俺は、おまえのそういうところが……気に入っている」
「セラ……セラだってじゅうぶん、わたしのこと甘やかしてるよ」
 喉もとをこみ上げてくる、熱い何かが邪魔をしてうまく喋れない。泣き笑いまじりに「でも、慰めてくれて、ありがと」と返した。
「甘やかしているつもりはない。俺がそんな人間でないことは知ってるだろう?」
「でも、今回のことは明らかにわたしが悪かったんだもの。セラの忠告を聞こうともせずに、自分のほうが正しいなんて思ってしまってた。傲慢だった。それでもわたし、やっぱり人を疑うようなことしたくないの。自分の心まで醜くなるような気がして……。それに、自分の解釈や人のうわさが正しいとはかぎらないでしょ? 甘いよね、こんな目に遭っておいて。何言ってんだろうって思うわよね。セラが怒るのも無理ないってわかってる。それでもわたし――」
 話しながら、勝手に涙が滲み出てきた。
 自分の弱さと、ふがいなさと、そしてこれまでの旅で感じた苦しみ、悲しみがいっきにこみあげてきた。そのときは我慢できた、あるいは傷つきたくなくて深く考えないようにしていた感情――自分のなかでとっくに折り合いをつけていたつもりだった。だがじっさいは消化できておらず、ただ堰き止めていただけだったのだ。それがいま、決壊してしまった。
 泣きたくなどなかった。人前で泣くなんて自分の弱さを晒すようで嫌だった。セラのまえなら、なおさら。だが抑えられなかった。意志に反して滲み出す涙を、せめて頬を伝って溢れ出してしまわないようにと、目のうちに溜めるようにしてこらえた。みっともなく声が震えてしまわないように、とぎれとぎれに話した。
「ごめん、なさい……こんなことで、泣くなんて……わたし、まだまだ弱い、ね」
 言い終わるよりさきに、セラの腕に引き寄せられた。
 無言で胸板に顔を押しつけられる。強引だが苦しくはない抱擁。
 いつだって厳しい姿勢を貫くセラだ。あきらかにこちらの落ち度、失敗とわかることには苦言を呈してきた彼が、しかし今は非難も呆れもせず、ただ黙って話に耳を傾け、泣くことを許してくれた。
「弱くなどない。泣きたいときは泣け。弱音を吐いたっていい。それに俺は、おまえに怒ってなどいない」
「えっ、でも……」
 マントを貸そうとしたとき、セラは明らかにいらだっていた。表情をあまり表に出さないセラだが、長い付き合いなのだ。さすがにわかる。
「たしかに俺は腹を立てている。だがおまえに対してではない。おまえを傷つけたあの男にだ。だがそれ以上に、みすみすあの男に隙を与え、おまえとふたりきりにしてしまった俺自身にな」
「そんな……セラは悪くないよ。そんなふうに思わないで。わたし、セラの負担にだけはなりたくないんだから」
「負担などと、馬鹿を言うな。おまえはロイ以外で唯一、俺が認めた女だ」
 それは最大の賛辞だった。ほかならぬセラからそう言われて嬉しくないはずがない。こんな状況でなければ素直に喜んだだろう。だがいまは、自分がその賛辞を受けるのにふさわしいのか、自信がない。
「わたし、そんなふうに思ってもらえる資格、ない。だって、これより危険なことなんて何度も経験してるはずなのに、すぐに動けなかった……まさか自分がこんな目に遭うなんて思ってなくて……身体が竦んだ」
 おかしいよね、と自嘲する。
「竜や闇の巨人や魔人、手強い敵を幾度も相手にして、命の危険だって何度も感じてきた。それなのに……冒険者ひとりを、あんなやつを一瞬でもこわいと感じるなんて……笑っちゃうよね。少しは強くなったと思ってた。でも、そんなことなかった。わたしは、まだまだ弱い」
 抱き締めるセラの腕が、わずかに強くなったのを感じた。
「弱いからおそれを感じるのではない。誰だって未知のものにはおそれを抱き、遠ざけようとする。恐怖心は危機回避のための防衛本能でもあるんだ。もちろん、恐れて何もできないようでは駄目だが、ある程度の恐怖心は生き抜くために必要だと思っている。おそれを感じないやつは命知らずの馬鹿か、感情を持たない者か、あるいは命を捨てている者だけだ」
「セラも恐怖を感じることがあるの?」
「あぁ」セラは迷いなく答えた。
 思わずセラの胸からすこし顔をあげた。するとセラは「意外か?」とふっ、と笑った。
「俺にとってもっともおそろしいのは大切な者を失うことだ。以前の俺にとって、それは姉だった。だがいまの姉さんにはロイがついている。姉さんを守るのはやつの役目だ」
 そこで言葉を切ったセラを、腕のなかから見上げた。セラが姉をどれだけ大切に思っていたかは知っている。つまりいまのセラにはおそれるものがないということ?
 ややあって、セラが呆れたように口を開く。
「まだわからないか? いまの俺にとって大切な者はおまえだということだ」
 思いもよらなかった言葉に、思考が停止した。「なんだその呆けた顔は」と不服そうなセラの声が降ってくる。
「えっと……」
 言葉の意味があとからじわじわと頭のなかに浸透していき、顔が熱くなる。そんな顔を見られたくなくて、セラの胸板に顔を埋めた。
「おい」セラが声をかけてくるが、顔をあげられない。
「おまえ……まったく。それはわざとなのか?」
 わざと? 何が……。
 はっとして自分の身体を見下ろすが、マントにくるまれ、肌身は見えていない。
 では、わざととは何に対してだ。
 そのとき、頭上から長いため息が聞こえてきて、ぎくりと身体が強張った。
「セラ? あの、ごめん……わたし、また何かやっちゃった?」
 顔をあげてセラに訊ねた。気づかぬうちに粗相でもしてしまったか。いよいよセラも呆れてしまったのかもしれない。
 気が弱っていると、そんなふうに思考がマイナスなほうへ行ってしまう。
「いや違う、そうではない。俺も軽率だった」
 セラは否定するが、言葉の意味がわからなかった。
「ときどき思い知らされる。おまえは女で、俺は男だということに」
 そう言ってセラは顔を逸らした。
 それはつまり、セラはこちらを異性として意識しているということで……。
 そうわかったとたん、また気恥ずかしくなった。もしかしたらセラも同じ? あのセラが恥ずかしがったり照れたりすることなんてなかなかないし、あっても素直に認めないだろう。そういえば心なしか、触れ合う肌から伝わる熱が、さっきより高いような気がする。それは自分の体温なのか、それともセラの体温か。
「気をつけろ。男は相手に情がなくとも欲求を発散しようと思えばできるものなんだ」セラは言う。
 それはセラも?
 そう問おうとして、やめた。
 依然としてセラは目線を合わせようとしない。本当は身体ごと離れたいのかもしれない。それでも抱きしめる腕を離さないでいてくれるのは、セラの優しさだろう。
「――やっぱりセラ、さっきは否定したけど、わたしのこと甘やかしてる」
 またひとつ、セラの新しい一面を発見した。ふだんも優しくないわけではないのだが、もともとの冷厳さが目立つぶん、わかりづらい。今日のセラは、口調こそいつもどおり淡々としているが、言動はこちらを思いやってくれているのがわかる。
「おまえの身に起きたことを考えれば、おまえの気持ちを慮りもせずに非難や諫言ができるほど俺は人非人じゃない」
「でももし、わたしがあの男に勝てずに……いいようにされてしまったとしたら、やっぱり幻滅したよね?」
 男は冒険者だけあって手強かった。さらには手慣れているようだったので、今回が初めてではないのかもしれない。最初から警戒していたとしても勝てたかどうかわからない。
「なぜそう思う?」
「だって……あんな男一人に負けるなんて、セラの相棒にふさわしくないでしょ」
「おまえはたしかに強い。だが、どんなに強かろうが、警戒や覚悟をしていようが、力が及ばぬことはある。俺は女ではないからおまえが感じた恐怖を理解することはできない。想像もできん。だがおまえはたとえ力で屈したとしても、心まで屈する女ではない。そうだろう?」
「セラ……」
「俺はおまえという人間をわかっている。他の誰がおまえをどう評価しようと、俺がおまえを見放すことはない」
 目頭が熱くなる。
「やっぱり、甘いよ」
 そして、優しい。
 セラの言葉が、冷たく凍った心を溶かしていく。
「でも、そんなこと言っちゃっていいの? もしわたしが……たとえば道を踏み外したりなんてしてしまったら……」
 同じことは言えないだろう。
「おまえに限ってありえんが、もしありえるとするなら、何か事情があってのことだろう。それで見放すならそれまでの関係だったということだ。だがあいにくそうできるほど俺のなかでおまえの存在は軽くない。おまえが道を踏み外したなら何をしてでも正す。他の誰かがおまえを糾弾し、断罪するのなら俺がおまえを許す」
「セラ……ありがとう」
 実際にそんな状況になってみなければわからないことだが、それでもその言葉は嬉しかった。
「もっとも、俺も昔はここまで寛容ではなかった。一度悪と断じたものはどんな事情があれ、そのいっさいを拒絶した。まして理解しようとなどとは思うべくもない。だが、おまえは違った。ただ悪に憤り、理由や原因を想像することもなく根底から否定し、ただ断罪や糾弾をするのではない。相手の心の芯を見つめ、理解し、掬いあげようとするおまえを見て、おまえには敵わんと思った。それが無限のソウルとやらなのか、と」
 セラの姉の身体を乗っ取り、人間のために消えていった妖精たちの復讐を果たそうとしたアーギルシャイア、世界に絶望し、消滅させようとしたエルファス、そして虚無の子シャリ――。特にアーギルシャイアには両親とその故郷を奪われた。シャリのしたことも許せないことは多い。だが事情を知ってしまうと、一方的に憎むことはできなかった。アーギルシャイアは人間が魔法を行使するたび、その力の源として散っていった精霊たちの嘆き、怒りから生まれた魔人。その性質ゆえに精霊たちの悲しみと人間に対する深い憎悪を背負っていた。彼女を生み出した最たる要因は人間だ。魔人を生み出したり、復活させるのはいつだって人間にほからならない。そう知ったとき、彼らが人間に仇なす理由はどんな弁解の言葉を並べても言い訳のしようがないほどに明白――人間の自業自得なのだ。
 それを知ってしまったら、彼女に対して怒りや憎しみの感情を持つことは間違ってはいないのだとしても、正しいこととは言えないのではと感じた。彼女のしたことは許されるものではないし、復讐を肯定するわけではない。だがもとを辿れば人間の身勝手さが引き起こした、自業自得ともいえるこの因果に自分たちの行いを棚に上げ、素知らぬふりで彼女を断じる資格がはたして自分たちにあるだろうか。目のまえの悪が糾弾しうるものだとして、断罪する自分自身は悪くないと言えるのか。
 アーギルシャイアの支配から解放されたセラの姉シェスターがしたように、赦しを与え、憎む以外の道を選ぶことができるはずだ。このことをきっかけに、敵対していた者たちの心に棲む哀しみ、怒り、憎しみ、失望、虚無感をわかりたいと思った。その心のほんのわずかな切れ端であっても触れてしまえば、たとえ救えなかったとしても、一方的に否定することはできなかった。
 誰もが自分の信念を持っていて、だがそれが真に正しいかどうかは誰にも裁定できない。もしそれが、誰もが悪だと断じるものだとして、そう断じる自身もまた正しいとは言えないかもしれない。善悪で推し量るまえに、その心を苦痛をすこしでも理解し、救うことができたなら。
「わたしだって正しくなんかないよ。どうしたらいいのか、何が正解なのかわからなくて、迷うことなんてしょっちゅうだし、間違えることもあるもの」
「そうだな」セラはうなずく。「自分にとっての最善が他人にとっての最善とはかぎらん。誰にとっても正しい選択などありはしない」
 深い憎悪や怒り、悲哀に囚われた人々の、すべてを理解できるなどと傲慢なことは言わない。それはそれらを経験し、直接感じてきた本人にしかわかりえないもの。それでも、そんな人々に関わってしまったら、知らぬ顔で通り過ぎることはできなかった。その悲しみに気づいてしまったとき、その心をわずかでも理解したいと、救いたいと思って行動してきた。
「セラ?」
 ふいに黙りこんでしまったセラが気になり、顔を覗きこんだ。セラは物思いから覚めたように目を合わせ「あぁ……」と返す。
「だいぶ話しこんでしまったな。今日はもう遅い。明日に備えて寝ろ」
 そう言い抱きしめている腕を解くと、軽く肩を叩いて促した。離れていく熱に、そんなわけではないと頭ではわかってはいてもやんわりと拒絶されたような心地になって、気づけばセラの腕をつかんでいた。
 セラは驚いたように見つめ返した。
「どうした」
 衝動的にしてしまった行動。自分で驚いている。弾かれたように手を離した。
「ごめん……」
 あんなことがあったばかりで動揺しているのか。だとしても、セラに縋ろうとするなんて。相棒がこんなに弱くてはセラに呆れられてしまう。するとセラが言った。
「やめておけ」
 どういう意味かと首を傾げる。
「今の俺は――おまえを傷つける」
 目を合わせないセラ。わずかに外された瞳には焚き火の炎が映っている。そのせいか、ふだんとは違う感情が見えた気がした。
「傷つけないよ」
 セラが微かに振り向いた。
「セラは、わたしを傷つけないよ」
 セラの顔を見据えてそう言うと、今度はしっかり視線があった。燃えるような熱い光を感じた。揺らめく焔のように静かに、だが激しく滾る強い感情。その正体に、何となく気づいた。セラもきっと、気づかれていることに気づいている。
 しばらくのあいだ、まるで睨み合いのように互いを見つめる沈黙が流れた。先に動いたのはセラだった。彼の手が頬に触れる。その手に自分の手を重ね、微笑んでみせた。少し、ぎこちなかったのはやはり少しだけ怖かったのかもしれない。だがここで首を横に振れば、この先ずっとなかったことにされるだろう。この晩のセラと自分の思いは。
 何かを言う必要はなかった。セラの顔が間近に迫って目を閉じた。雨に濡れた彼の唇は熱かった。荒々しいように見えて優しいキスはセラの内面を表しているようだった。たくさんの仲間と旅をしていたときも感じていた、冷静沈着の裏に宿す激情。
「いいのか?」
 低く囁くように問う声に、うんと小さく頷いた。
 たとえ波濤のようにぶつけられてもその感情を重いとか苦しいなどとは思わない。その流れに身を任せるように、目を閉じた。


 翌朝はセラが先導して町まで向かった。筋肉痛とは違う、はじめての身体の痛みに、途中で何度も休憩を挟まざるを得なかった。それでもセラは一度も責めなかったし、不機嫌な顔ひとつせず、むしろ終始こちらを気遣ってくれた。
「痛むか?」「すまなかった」「やはりもう一日あの小屋で休むべきだったか」
 そんな調子で、時に辛辣ですらあるふだんの厳しいセラからは想像もつかない様子だった。それを指摘すると罰が悪そうに「悪かったな」と皮肉をこぼす。あまりにつらいようならと、おぶろうとまでしたセラの申し出を断って、二人獣道を進む。セラの言うように、本音では半日でもいいからあの小屋で休みたかった。だがあの場所にいると、あの男に襲われた屈辱と恐怖を思い出しそうになるのでやめた。
「でも、あの男あのままにして大丈夫かな」
 件の男はセラが小屋にあった縄でぐるぐる巻きにして小屋から放り出した。まだ寒さの残る春先、あの状態で一晩中夜の雨に打たれては無事では済まないだろう。男はスロウヘッジで身動きが取れない状態だったが、呪文の効果もいつかは切れるし、曲がりなりにも冒険者だ。死ぬようなことはないかもしれないが。
「それは奴が生き伸びて仕返しすることを恐れているのか? それともまさか、奴の身を案じているのか?」
「えっと……両方かな」
「お前を襲おうとした男だぞ? あの場で殺してもよかったくらいだ」
「わたしだって許すつもりはないし、あのままあいつがどうなろうと構わないけど、結果的に護衛任務を放り出して、身体中を縛って置き去りにしちゃったわけだし、わたしたちが直接手にかけたわけじゃないとしても、あの男が死んだとしたら同じことでしょ。もう、そういうことはできることならしたくないんだ。だからって野放しにするんじゃなく、ちゃんとしかるべきところで、罪を償わせるべきだと思う」
 過去の戦争で多くの命を奪った。大切な仲間を、国を、はては世界を守る戦いだったとはいえ、敵対したかったわけではない。覚悟はしていたが、心は堪えた。それがどんな命ですら、手にかけた瞬間、自分の中の、人間として大事な部分が死んでいくのだ。
「奴も冒険者だ。自力でなんとかするだろう。あの縄もだいぶ古いもので、ところどころほつれていたからな。一応街に着いたら救援要請でもしておけばいい。むろん、手配書の申請もな」
「うん」
 こちらの思いを切り捨てずに、掬い上げてくれた。そのことに胸が温かくなると同時に、一抹の不安がよぎる。だがそれもセラは見通していた。
「仮に男が俺たちへの仕返しに追ってきたとしても返り討ちにしてくれる。もう二度とお前を傷つけようなどと思えないようにな。大丈夫だ、お前が手を出す必要はない」
 片隅にあった憂いをかき消すようなセラの言葉。
 そう、大丈夫だ。この人がいれば。一緒ならきっと。
 昨夜とは違うすっきりとした青空に暖かい風が吹く。街にまで、あと少し。

END


 終盤まで書き上がってはいたものの、甘い展開にするとセラっぽくないなぁ、と私の中のセラ像との齟齬でなかなか甘いシーンが進まず、ずーっと放置していたものを今回気分転換がてら続きを書き始め、何とか書き上がったしだい。私の中のセラの甘さはこれが限界だった。