金色の風の軌跡

#5









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 どこまで歩いただろう。少し頭を冷やすつもりが、いつのまにか森の奥深くまで来ていた。宿のある村はすでに見えない。空に浮かぶ月は細く、その身の大半を闇に埋めている。まだ鼓動がおさまりそうになかった。
 眠れずに外へ出ようとしたとき、ちょうどアウラの部屋からゼネテスが出ていくのを見た。シャリの言うようにアウラのことを心配して様子を見に来たのだ――と、わかっているのに心はもやもやしていた。
 二人は今回のクーデターで心身ともに疲弊している。シャリが匂わせたようなことなどありはしない。頭ではわかっていても、この気持ちはなんだ。身のうちを荒れ狂う波。自分のなかに、こんな激しい情があったのかと。ティアナを想っていた時ですら、こんな感情ではなかった。一方で、そんな自分を冷静に俯瞰するもう一人の自分がいる。あの男は人を惹きつける。ティアナやアウラが惹かれるのも自然なことだ、と。
 ――諦めろ。
 ――認められない。
 相反する感情がせめぎ合う。
「抗っても無駄。だって世界は変わらない」
 レムオンの心を見透かしたような、闇からの声。すでにその気配に気づいていたレムオンは驚かなかった。
「諦めてしまえばいい。委ねてしまえばいい。抗えば苦しいだけ。抗っても、誰もあなたの葛藤には目もくれない。報われもしない……闇は心地がいいものよ。きっとあなたも楽になれる。だってあなたもわたしと同じ……誰にも理解されない闇を持っている」
「……何を」
 鼻で笑い飛ばせればよかった。アトレイアの言葉はレムオンが目を背けようとしていた心の奥深くを突いた。
「みんな、あなたの感じる痛みを知らずに勝手なものね。でもそれも当然。あなたの悩みは別の誰かにしてみれば取るに足らないちっぽけなもの」
「ちっぽけ……だと?」
 ふつふつと怒りがこみ上げる。自分の悩みを馬鹿にされて穏やかでいられる者などいない。
「そう。それが真実。でも本当は苦しみに大きいも小さいもない。当人にとってはいつだって真剣なの。誰もその苦しみを嘲笑ったり、軽視する資格なんてないわ。だけど人は皆、他人を理解することなどできない。いくら語り聞かせても無駄。同じ闇を知る者にしか闇の深さはわからない。レムオン、あなたの痛みも、誰にも理解されない。ゼネテスにも、アウラにも」
「……」
「だから、わたしは苦痛を味わわせてあげるの。わたしが味わった痛みと同じくらい――いいえ、より深い絶望を思い知らせてあげるのよ」
 少女のうっそりと微笑む。生気のない青白い顔。目だけが爛々と輝いている。
「レムオン、あなたも思い知らせてあげればいい。あなたが欲しいものをやすやすと手に入れてしまうゼネテス、あなたの想いに気づかずほかの男にすがるアウラ――二人を苦しめてあげるの」
 それは甘美な誘惑だ。
 いっそ闇に堕ちてしまえば楽なのかもしれない。沸き上がる衝動を無理に抑えようとするから余計に苦しいのだ。衝動に身を任せ、自分を苛むものを一掃すれば――。
「……饒舌なことだ。そんなに俺を仲間に引き入れたいか? いや――違うな。おまえが欲しいのはおまえの闇に共感してくれる仲間ではない。自分の思い通りになる人形だろう?」
 今さら傷を舐め合える相手など、この娘は求めていやしない。誰かに理解されることなどとうに放棄している。さもなくば闇に堕ちはすまい。この娘にいいように利用されてやる気などさらさらない。
「……だったらなんだというの?」
 言い当てられて怯むかと思いきや、娘は開き直った。
「そこにいたってあなたは報われない。誰もあなたを理解しない。どんなにあなたが努力しようと、どうせあなたの心が折れるほうが先。それはあなた自身がよくわかってるでしょう?」
「黙れ! だからといって俺はおまえの言いなりになるつもりはない」
「そう……残念ね。あなたはもう少し物わかりがいいと思っていたわ。でも、どんなに拒絶しようとわかっているはずよ。あなたは光のもとには生きられない」
 闇が引き、再び森に静寂が戻る。
 アトレイアの言うように、レムオンにとってこの世界は生きにくいだけだ。この世界の大半を占める人間たちの心ない偏見、差別がレムオンのようなダルケニスなどの少数種族を表の世界から一掃した。僅かに生き残ったダルケニスはそれと悟られぬよう人間のふりをして暮らすか、人間社会から離れ、ひっそりと隠れ潜んでいる者がほとんど。昔のようなダルケニス狩りが行われなくなった今、ダルケニスであることを隠さずに生きる者もいる。だが風当たりは厳しいだろう。どこに行ってもまともな職にはつけまい。冒険者が関の山だ。
 闇に身を任せたほうが楽になれる。いくら抗おうとダルケニスであることは変えられない事実。だがアトレイアやシャリの言いなりになるなどもってのほか。レムオンのプライドが許さなかった。人形になってアウラたちを傷つけるくらいならいっそ死を選ぶ。
 それにレムオンにはもう、アウラやゼネテスを殺すなど考えられなかった。一度は彼女をほかの誰かのものになるくらいなら殺そうとも思った。事実、そうしようとした。あのときはどうかしていた。そんなことをしてもなんの救いにもなりはしない。昏い喜びに浸るのもつかの間、途方もない喪失感と絶望が襲うだろう。アウラのいない世界など考えられない。
 ゼネテスもまた、叔母を討った敵であるレムオンを冒険者として迎え入れた。
 今の自分には仲間がいる。理解を示し、受け入れてくれる者が。
「たとえおまえの傍らに立つ者が別の誰かであったとしても、俺は……」
 おまえさえ生きていてくれるなら、それでいいのだ。







      ***







 凍える思いだ。心にぽっかり開いた穴に、隙間風が吹いている。それを埋めるように酒を飲むが、却って喪失感が増すいっぽうだった。だがそれでも飲まずにいられない。今だけは誰にも会わず一人で……。酒場の喧騒を遠くに聞きながら、ゼネテスは一人カウンターで酒を煽る。こういうときはいくら飲んでも酔えないものだ。頭はくらりときても意識ははっきりしている。どうせなら前後不覚になるくらい酔えればいいのだが。
 これは弔い酒でもある。共に戦い、散っていった仲間。命を奪った敵方の兵士たち。そして、叔母への――。
 叔母は最期まで気丈でいたことだろう。どんな悲しみも痛みも表に出すことはなく、気高く聡明であった。そして何より、身内を大切にする温かい人だった。同時に、大切なものを守るためならばどこまでも冷酷で非情になれる人だった。しかしそんな叔母の人となりを、一番伝わってほしい相手には残念ながら伝わっていなかったが。
 死を覚悟してしたためた遺書には、ティアナにあてた文面もあった。エリスがどれだけティアナを愛していたか。それが少しでも伝わればと。だが自分は死ななかった。生きていればこれからいくらでも伝えられるだろう。彼女の知らないエリスの姿を。
 酒場に似つかわしくない子供の無邪気な笑い声が耳を擽った。
「やけ酒かい? いいのかなぁ、そんなことしてて」
 声の主はつい先刻、王宮で顔を合わせたばかりの道化師だった。
 いつの間にか酒場の喧騒は止んでいた。しかしそれどころではない。
「まだ何か用か。俺の命を奪いに来たか、それともスカウトかい? 悪いが今はおまえの相手をしてやれる気分じゃない」
「君はそうやっていつでも余裕を装うけど、それは他人に心のなかを踏み込まれたくないからじゃない?」
「かもな。それだけかい?」
「君が望むなら、僕はどんな願いも叶えられるよ。たとえば、死んだ人間を蘇らせる、とかね」
 ゼネテスはグラスを置いた。
「そいつは甘美な誘惑だな。だがな、死んだ人間はどうしたって生き返らないんだ。だからこそ何よりも尊ぶべきものなんだよ」
 これ以上の勧誘は無駄と悟ったのか、シャリは反論しなかった。
「さて、用はそれだけか。ならこの妙な術を解いてくれないか。静かすぎるのも落ち着かなくてね」
 すると酒場の喧騒や物音が徐々に音を取り戻していく。ふと、ついでのようにシャリが言った。
「アウラが倒れちゃったみたいだよ。一応お知らせしといたほうがいいかと思ってね。彼女はこのすぐ近くの宿屋にいる」
「おまえ……まさか!?」
「ふふ……様子を見に行ってあげたら?」
 シャリの姿は煙のように消えた。
 シャリがアウラに何かしたのか。しかしそれならなぜ、王宮にいたときに殺さなかった。罠の可能性もあったが、躊躇している暇はない。ゼネテスは宿屋へと駆け出した。

 部屋のドアを開けて、ゼネテスは深く息を吐いた。ベッドの上のアウラに変わった様子はなく、静かに寝息を立てている。
 ベッドに歩み寄り、眠る彼女を見つめた。
 初めて会ったころに比べ、彼女はだいぶ成長した。
 だが冒険者として名を馳せたといってもアウラはまだ若い。ついこのまえまで片田舎の農家の娘だったのだ。故郷では暴政を働く代官相手に自ら反乱軍を率いていたらしいが、人を殺したことはさすがにないのだろう。純朴に育った娘なのだ。そんな娘に戦争など酷であったかもしれない。
 だが今回の戦争はエリスから直々に出兵を命ぜられたらしい。もっともゼネテスもアウラを誘うつもりでいたのだが。レムオンは案の定、彼女を戦場へ行かせたくなかったようだ。ディンガルの副将として第一次ロストール戦役に出陣していたことをそれとなくレムオンに教えたのはゼネテスだ。エリスには黙っておくと言えば、貸しを作ったつもりかとレムオンは詰ったがもちろん違う。再びディンガルが攻めてきたとき、アウラがディンガル側ならゼネテスは彼女を斬らなければならなくなる。見逃す、というわけにはさすがにいかない。ならばレムオンには伝えておいたほうがいいだろうと思ったまでだ。彼女が大切なら繋ぎ止めておけ、と。もっとも、些かおてんばではある彼女だが決して馬鹿ではない、命の綱渡りのような真似はしないだろう。
 それにしても、誰が見ても明らかなのに当人が思いを自覚していないのは第三者から見ても歯がゆいものだ。あれでもまだ自分のアウラへの気持ちに気づいてないのだろうか。
 なんにせよ、今はゆっくり休むといい。お互い、いろいろありすぎたから。