そのさきの未来へ

#2

 宿に戻るころには夜もすっかり深まっていた。彼女もとっくに夢の住人だろう。だがレムオンはどうにも寝つけそうになかった。ゼネテスとの舌戦のあと、というのもある。何より、心にある小さなしこりが眠りの安寧に落ちるのを阻んでいた。
 我ながら子供っぽいと自覚しつつ、こんなに思い煩うのは彼女のことだけだ。それを覗けばレムオンは元来冷静な気質なのだ。
 深夜に女性の部屋に、しかも了解も得ず訪問するなど、たとえ想いを通合った相手であれ貴族時代には考えられなかったことである。
 閉じられた瞼、規則正しく上下する胸元。部屋の主はレムオンの侵入に気づく気配はない。
 頬にかかる髪を梳く。彼女に触れているとささくれだった心もほぐされていく。たとえ髪の一本でも他の誰にも渡しはしない。
 寝台の端にそっと腰かけ、上半身を屈ませる。レムオンにとっては極上の絹糸にも勝る髪の一房に口づける。この腕にしまいこみ、この世のあらゆるものから遠ざけ、その姿を誰が見ることも叶わぬよう己だけのものにしてしまいたい――頑是ない思いが浮かぶ。もちろん思うだけで実行に移すことはしない。 なぜなら彼女は必ず自分のもとに帰ってくるとレムオンは信じているからだ。
 彼女が自分にとっての唯一であるように、彼女にとっての唯一も自分であってほしい。そう思うのは過ぎた願いだろうか。
「ん……あれ、レムオン?」
 無意識に何度も髪を撫でていたらしい。さすがに起きてしまった。
「帰ってたんだ……おかえり」
 寝惚けているようだ。
「――ゼネテスに会った」
 彼女の表情に変化はない。一瞬の揺らぎも見過ごさないつもりでじっと見つめるが、その目には焦燥も驚愕もない。
「昼間、奴に会ったそうだな。なぜ黙っていた?」
 問い詰めるでもなく静かに訊ねたが、ここで彼女に変化があった。目を伏せ、口を開きかけ、思案げな表情は言葉を選んでいるように見える。その態度に、もしやと不安になる。
「おまえ、まさかゼネテスと――」
「違う!」
 彼女が身を起こす。
「ほう、何が違うと言うんだ。俺はまだ何も言ってないぞ」
 意地悪く言えば彼女はむっとした顔つきで睨む。
「だって絶対勘違いしてるでしょう」
「俺がどう勘違いしていると? 誰だってそう思うだろう、おまえの今の反応を見ればな。加えて奴はああいう男だ! 勘違いするなというほうが無理だろう」
「ゼネテスは……そんな人じゃないよ」
 ここにきてあの男をかばうのか。レムオンのなかで枷が外れた。凶暴な獣を押し込めていた檻の枷が。
 気づけばベッドにのしあがり、身を起こしたはずの彼女を再びベッドに張りつけていた。
「またあの男をかばうのか? よほどあの男を信頼しているようだな」
 応対を間違えたと気づいたのか、彼女は押し黙った。
「俺は……おまえさえいればいいと思っていた。おまえは、違うのか?」
 そっと彼女の手が頬に触れる。
「レムオン……聞いてくれる?」
 今度は目を逸らさずに一心にレムオンを捉える。レムオンが静かに続きを促すと彼女は話し始めた。
「わたしはレムオンには笑っててほしい。でも今レムオンは幸せなのかな、って」
「当たり前だろう! 俺はおまえといて充分幸せだ。満たされている」
「……前に、山賊と結託していた領主の神官をやっつけたこと、あったよね。あのときレムオンは、手を汚すのは自分だけでいいと言ったけど、わたしだってレムオンにそんなことしてほしくない」
「おまえは……そんなこと気にしなくていい。俺はダルケニスだ。今さらどう思われようと構わないが、おまえは違う」
 娘は頭を振るう。
「そんなふうに言わないでほしい。一緒に生きていくって決めたんだもの。自分でなんでも背負おうとしないで」
 レムオンは声を詰まらせた。思わず彼女を強く抱き締める。
「わたしがレムオンに無理をさせてしまってるんじゃないかって……ゼネテスと会ったときに相談したの」
「何を言う、そんなことはない!」
 ありえない。だが自分が彼女を思うように、彼女もまたレムオンのことを思ってくれていたのだ。
「ゼネテスと会ったことを話さなかったのは……その――」
 とたんに目を伏せ口ごもり始める彼女。ふたたびレムオンのなかで焦燥感が首を擡げるが、なんとか表には出さずに「なんだ?」と静かに訊ねる。
「えっと……昨日の今日だったし」
 昨日の今日? 何がだ。
「だからっ、昨日、あんな話をしたばかりだから、なんとなく言いづらくって」
 そこでレムオンもようやく思い当たる。
 彼女の太腿に残る傷痕。その原因とあの男。つい昨日――時間的に一昨日のことになるか――軽い口論をしたばかりである。
 そのときの自分の失態を思いだし、レムオンは気まずくなって目を逸らす。
「それは、まぁ……うむ。だが、今後は隠さずに話してほしい。何もなかったのだとしても、俺の知らぬところで他の男に会っていたというのは男として不安になる」
 昔の仲間に会うなとは言わないが、やはりあの男相手では気が気でなくなるというもの。それに彼女は良くも悪くも人を惹きつける。彼女の仲間はみんな、同性も異性も異種族も、彼女に惹かれるのだ。
「うん……黙っててごめん。以後、気をつけます」
 さすがに悪いと思ったのか彼女も素直に謝った。この件はそれで終わったと思った。しかし。
「ロストールへ?」
 ギルドの配達依頼でロストール行きのものを請け負ったらしい。今まで意識的に避けていた場所だった。
「俺は……行きたくない」
 最初は断っていたが彼女の度重なる説得に、最終的には折れた。ギルドに顔を出したらすぐに街を発つのを条件に。
 彼女がギルドに出ているあいだ、レムオンは宿から一歩も出ずに待っていた。
 ただ配達物を届けるだけにしては遅い。ギルドで目ぼしい依頼でも探しているのか。それにしたっていくらなんでも時間がかかりすぎではないか――。ただじっと待っているのにも焦れてきたレムオンが部屋を出ると、同時に隣の部屋の扉も開く。思わずそちらに目を向けて視界に入った人物に、レムオンは目を瞠った。
「まぁ……レムオン様」
「ティアナ……」
「おひさしぶり、ですね。お元気でしたか?」
 ティアナに微笑みかけられ、レムオンもぎこちなく頷く。
「あぁ……女王陛下も壮健そうで何よりだ。ところでなぜこんなところに?」
「復興団の活動でこの場をお借りしていたんです。女王では堅苦しいですから、今までどおりティアナと呼んでください」
「あぁ……」
 会話が途切れてしまう。
 久方ぶりに会うせいか調子が狂う。
 無論、今はティアナに対して恋慕の情も未練もない。だが貴族であったころの、揶揄交じりの会話をしていたときのような余裕は今のレムオンにはない。あのときとは状況も立場も違う。
「でもよかったですわ。今日この日に会えて」
 どこか感慨深げなティアナに、どういう意味だとレムオンは首を傾げる。
「エスト様やセバスチャンにはもう会われまして?」
「いや」
「ならば是非。あ、わたくしもちょうど帰るところでしたので、ご一緒に行きましょう」
「いや……俺が会いに行っても迷惑だろう」
 ティアナは目を丸くする。
「まぁ、なぜ」
 なぜもなにも。レムオンはクーデターの首謀者であり、ロストールの今の惨状の一旦を担ったといっていい。罪をでっちあげ王妃エリスを処刑、処刑寸前だったゼネテス、そしてクーデターの首謀者であるレムオンもダルケニスであることを暴かれ退かざるを得なくなり、ロストールは瓦解したも同然。悲劇は続くもので国王セルモノーが崩御(正確には魔人に憑依されていた王を倒した)。ティアナが新女王に即位した。彼女たちに最後に会ったのも、そのセルモノーの件だ。それ以来彼らとは会っていない。今さらどんな顔をして会えというのか。
「お二人とも、レムオン様のことをとても心配しておられました。会われてはいかがですか? お時間があるのでしたら少しだけでも」
「……」
 共に旅する彼女が今この場にいたならば、なんとでも言い繕って断れるのだが、頼みの綱はまだギルドから戻らない。
 結局なし崩し的にかつての屋敷に連れられ、そこでレムオンは言葉を失った。
「兄さん、誕生日おめでとうございます!」
 自身が訪れることを明らかに知っていた様子のエストとセバスチャン。そして――。
「おめでとうレムオン」
「なぜおまえがここに……」
 ギルドにいるはずの、彼女がそこにいた。
 彼らの表情を見てレムオンは得心した。
 今日一日で準備できることではないだろう。おそらく前々から示し合わせていたに違いない。レムオンに気づかれぬよう彼女がティアナらと手紙のやりとりでもしていたのだ。ティアナも、エストやセバスチャンが心配している、などと言っていたが白々しい。連絡を取り合っていたのなら、レムオンの様子など筒抜けであったろう。
「ごめんねレムオン、内緒にしてて。でもどうしてもみんなでお祝いしたくて」
 眉尻を下げて微笑む彼女に、レムオンは何も言えず溜め息を溢す。
「それで突然ロストールに行くなどと言い出したのだな……」
 それにしても、今日が自分の誕生日であることなど失念していた。
 ――誕生日など祝ってくれなくとも、おまえがいてくれるならそれでいいのに。
「兄さん、彼女を責めないで。兄さんがロストールに来たがらないことは知ってたけど、今日ばっかりはいいでしょ? みんな兄さんの誕生日を祝いたかったんだもの」
 エストが言う。久しぶりに会う弟は少し背が伸びたようだ。
「左様でございますよ。ご壮健なレムオン様の御姿を拝見できて、セバスチャンも安心いたしました。よろしければこれからも度々お顔をお見せになってください」
「セバスチャン……」
 この執事も、他種族に対する偏見もなく、当主ではなくなったレムオンを未だに敬い慕ってくれている。
「そうだな、今日くらいは」
 しがらみも何も忘れよう――。
 その日は久々に賑やかな食卓となった。
 夜になり、レムオンは彼女と宿に戻ろうと考えていたが、彼女やエストらに引き留められ、結局リューガ邸に一泊することになった。
「兄さん、少しいい?」
 就寝にはまだ早い時間、エストがレムオンの自室を訪ねてきた。
「なんの用だ、エスト」
「うん……兄さんは、ここに戻ってくる気はない?」
 協力してほしいんだというエストの言葉を理解するのにしばし時間を要した。それほどに予想もしていなかったのだ。
「何を馬鹿な」
「そうかな。事実人手が足りなくて困ってるんだ。陛下もおっしゃってただろう?」
 祝いの席での会話で、ティアナがそんなことを溢していたような気もする。支援してくれる者もいるが、先のクーデターの影響で思うようにいかないのが現状だと。
「正直言って、僕には兄さんほどの政治的手腕はない。今までそういうのは兄さんに任せきりで、僕は考古学にばかり没頭していたからね。近い将来ロストールの貴族制度は廃止する。そのとき国は混乱するだろう。新たな体制を立て直すにも人手がいる。そんなときこそ兄さんのような有能な人に力になってもらいたいんだ」
 考古学以外でエストが熱弁を振るうのを見るのは初めてかもしれない。そう思いながらもレムオンは冷めた心地だった。
「本気で言ってるのか? 俺はクーデターの首謀者でダルケニスだぞ。今さら何をしろと?」
「兄さんが貴族のしがらみから解放されて自由になって、僕も嬉しかったよ。だから頼むべきじゃないとも思った。でも兄さん、今は、いがみ合ってた貴族同士が手を取り合って復興を進めてる。まだ反感を持つ者もいるけど、新女王の味方は少しずつ増えてきてるんだ。
 さっきも言ったけど、いずれ貴族も王もいなくなる。身分の差がなくなり平等になるんだ。でもそれだけじゃなくて、できれば種族差別もなくしていきたいと僕は思ってる。女王も同じ考えだ」
「理想論だな。差別はなくならん」
「そうだね。でも、理想は改革の第一歩だよ。人間は同じ人間同士でも差別する生き物だから、差別を完全になくすことは無理だろう。でも、少しずつ理解を働きかければわかってくれる人もいるはずさ。十年、百年先かわからないけど、どんな種族も光の下で歩いていける、そんな偏見や差別のない自由な国に。いずれは世界全体がそうなっていけたらと思う。現にディンガルだって種族や身分が出世の壁にはならない、実力主義の国だろう。ロストールも見習うべきだ。そういう意味でも、僕は兄さんに手伝ってほしいんだ」
「……今さら戻るつもりはない。あいつと共にあり続けると決めたのだ。ここに俺の居場所はない」
「兄さんは少し彼女に依存しすぎてないかな?」
「だから何だ! 俺を受け入れてくれるのはあいつだけだ。ダルケニスなど、どこへ行っても誰も受け入れやしない」
 つい声を荒げてしまった。沈黙が落ちる。気まずくなりかけたところでエストが口を開いた。
「兄さん……これからさき二人で生きていくにしても、どうしたってダルケニスである兄さんと無限のソウルとはいえ普通の人間である彼女とでは寿命が違う。彼女が死んだら、兄さんは一人ぼっちになってしまう」
 彼女のいない世界などレムオンには生きる価値はない。
「そのときは俺も死ぬ」
「兄さん……」
 エストは聞き分けのない子供を相手にするような顔をした。
「彼女もそう思ったかどうかは知らないけど、とにかく彼女は、今の兄さんじゃ一人にしておけない、って心配していたよ」
「そんなことはまだ先の話だろう」
「そうだね。でもこの先何があるかわからない。彼女だってどんなに強くても人間だ。病気や事故に遭うかもしれない。そうなったら、一人残された兄さんを誰が支えて理解してあげるんだい」
「そんなもの必要ない! 余計な世話だ」
 そうなれば自分も後を追うのだから。
「じゃあ兄さん、もし兄さんと彼女のあいだに子供ができたらとしたら? それでも、子供を置いて死ぬつもり?」
 レムオンは言葉に詰まった。
「兄さん、彼女だけじゃない。僕らも兄さんにもっと頼ってほしい。僕たちも兄さんに協力してほしいし。今日はね、兄さんを祝いたかったのももちろんあるけど、それは兄さんに会うための口実だったんだ。彼女と連絡を取って、今日この日の計画を立てた。こうでもしなきゃ兄さんは僕たちに会ってくれないと思ったから……。兄さんを必要としてる人はたくさんいる。兄さんがいつでも戻ってこられるように準備もしてあるんだ。ねぇ、戻ってきてくれないかな、兄さん。僕たちに協力してほしい」
 しばらくの沈黙ののち、レムオンは言った。
「……少し、考えさせてくれ」
 エストが退室し、静寂が戻るとレムオンはしばらく微動だにしなかった。
 自分たちの将来にまで彼女が思いを巡らせていたとは知らなかった。ダルケニスである以上、闇に紛れてひっそりと生きるしかない。そんな自身を理解してくれるのは彼女だけでいい、と思ってきた。卑屈と言われれば確かにそうだ。外界が自分という存在を受け入れぬなら、自分もまた外界を拒絶する。そうでもしなければ生きてはいけないから。だが彼女はそんな自分の危うさを懸念していたのだ。彼女さえそばにいてくれるなら、どんなに果てしなく醜い世界でも生きていける――今もそう思うことに変わりはない。しかしその彼女が、そとの世界へと光を当てた。
 気がつけばレムオンは彼女にあてがわれた部屋に向かっていた。迎え出た彼女に挨拶もそこそこに部屋へ入る。
「レムオン? どうし――」
 彼女の言葉が途切れる。レムオンが抱きすくめたことによって。
「エストに……ここに残って協力してほしいと、言われた。俺は……正直迷っている。俺がいることが却って波紋を呼びはしないかと」
 彼女は静かにレムオンの言葉を聞いている。
「俺は……どうしたらいい? あいつが俺を必要としているのはわかった。だが――」
「それはレムオンが決めなくちゃいけないことだよ。でもレムオンがどんな選択をしても、わたしはあなたのそばにいる」
 そのとき溢れてきた感情はなんと言うのか。衝動のままにレムオンは彼女の頤を掬うと、口づけた。