そのさきの未来へ

#3

 硬質な廊下を叩きつけるように靴音を響かせながら、レムオンは苛立ちを隠せずにいた。原因は先刻行われていたディンガルとの首脳会談だ。和平条約が締結されてから、国交も回復し、ディンガルとは良好な関係を続けている。それはいい。しかしある一点が、レムオンを苛んでいた。
 ディンガルは今明確な指導者がいない。闇の勢力との闘いに勝利した後ネメアは帝位を退いた。正式な血統を受け継ぐザギヴが皇帝代理を務めているが、いつまでも代理のままであることを指摘すると、向こうから思わぬ返しがきたのだ。
 皇帝代理のザギヴはともかく実質的な実権を握っていると思われる宰相ベルゼーヴァ。警戒すべきは、未だ『無限のソウル』に執着しているこの男だ。
「誰がディンガルなどに渡すものか!」
 無限のソウルの持ち主である彼女を皇帝に――それがディンガル側の狙いであった。人類の革新には無限のソウルを持つ彼女こそ指導者に相応しいとか何だとか。ベルゼーヴァの説く人類の革新とやらには興味がないが、そのために彼女を欲しているというのならレムオンにとって捨て置けない事象だ。
 確かに彼女はもうリューガ家の貴族ではない、ただの冒険者だ。レムオンが失脚したときに、彼女もノーブル伯ではなくなった。もともとノーブル伯など名ばかりで代官らしい仕事など特に任せていなかったレムオンである。もっとも、これはレムオンも知らなかったのだが、ティアナやエストと親交のある彼女はそのよしみでクーデター以降、ロストールの復興に陰ながら尽力していたらしい。とはいえ何らかのポストについているわけでもない。
「今や世界を救った英雄のひとりである彼女を、よもや片田舎の代官などに収めておくつもりでもあるまい? それに、貴殿の異母妹などでないことは周知の事実。貴殿に彼女をこの地にとどめておく権利はないと思うがね」
 先の交渉でのベルゼーヴァの揶揄交じりの言い回しが耳に纏わりついて腹立たしい。
 世間では世界を救った勇者がノーブル伯である認知は薄く、実際称号は名ばかりで実務らしいことはしていない彼女。それはもともとはレムオンがその場しのぎで彼女を利用したからなのだが。それをいいことに彼女を新たな指導者に据えようとしているディンガル。それに対しロストール側――レムオンは反論するに確たる材料を持たない。
 すぐにでも彼女に会いたかった。会ってどうするわけでも、ディンガル側の思惑を話すつもりもない。ただ、彼女の存在を確かめたかった。一時でも安心したかったのかもしれない。しかし――。
「あぁ、彼女ならさっきギルドから名指しで依頼を受けて出ていったよ」
 部屋にいなかったので邸内を探していたところ、レムオンがディンガルとの会談中に出ていってしまったらしい。レムオンの様子を察したエストが教えてくれた。
「そ、そうか……」
 今や彼女はネメアと並ぶ有名人だ。そんな彼女を指名して依頼が来ることも少なくなく、もともとおとなしくしている気質ではない彼女が部屋を開けることもしばしば。レムオンもレムオンで復帰してからは忙しく、すれ違う日々が続いていた。
 らしくもなく少し取り乱していた自分に気づき、レムオンは咳払いをし、気まずさごと払いのけた。
「あ、待って兄さん」
 立ち去ろうとしたところをエストに呼び止められる。
「せっかくだからお茶しようよ。たまにはいいでしょ?」
 以前は考古学の研究で各地を飛び回っていたエストだが、今はロストール復興のため屋敷を開けることも以前よりは減った。何でも、研究のほうは一段落ついたのだとか。
「陛下がおっしゃっていたよ。ディンガルが彼女を皇帝に迎え入れようとしてるそうだね」
 女官も出払い、二人だけとなった席でエストが口火を切った。
「それで兄さんがイラついてたから愚痴を聞いて差し上げたら、って」
「……あいつめ」
 レムオンの態度がわかりやすいのか、幼馴染みだからこそ見抜いたのか。お節介なことだ。
「それで、兄さんはどうするの?」
「どうする、とは」
「彼女をディンガルに渡したくないんだろう?」
「当たり前だ!」
「ならどうしてきっぱり断らなかったんだい?」
「俺が個人的な感情だけで拒否したところで、やつらは引き下がらんよ」
「彼女自身も断るだろうね。兄さんのそばにいることを決めたんだもの。でも、だったら何も問題ないんじゃない?」
 あっけらかんと言うエスト。
「それでディンガルが納得するわけあるか!」
 いくら当人が断っても、一度や二度の交渉で諦めはしまい。強引なやり方で改革を押し進めるのがディンガル帝国のやり方だ。彼女を手に入れるためならばあらゆる手を打ってきてもおかしくないとレムオンは思っている。
 だが彼女は絶対に渡さない。たとえそれが世界にとって最善なことであったとしても、絶対に。
 頭を抱えるレムオンを見てどう思ったのか、エストはわざとらしいまでに盛大な溜め息をつく。
「そうやって、兄さんが政治的な物の見方しかできないのは仕方ないのかもしれないけど……どうしてもっとシンプルに考えられないかなぁ」
 どういう意味かとレムオンが不可解な視線を向ければ、エストは破顔した。
「だってもう答えは出てるじゃないか」
 答え? まだ得心がいかないレムオンに、エストはやれやれという様子で、出来の悪い生徒を諭す教師のように続けた。
「要はディンガルも口出しできない、誰もが納得できる大義名分があればいいんだ。兄さんは彼女を愛していて、彼女も兄さんを愛してる。それならもう答えはひとつでしょ?」

 その夜、レムオンは彼女の部屋を訪れた。たったひとつの誓いを口にするためだった。
「どうしたのレムオン?」
 速まる鼓動に自嘲する。改めて言葉にするというのは何とも緊張することだ。常日頃当たり前のように思っていたこと、言葉にせずとも日々誓っていたこと。だが思えば今まで明白に言葉にしたことはなかったかもしれない。愛の言葉や一生守っていく近いなら何度もしていた。だが公に、正式な形でそれを宣言することはしたことがない。自分はそうした日の光のもとに生きることを許されている人種ではないからだ。
 目のまえの愛しい者の名を呼んだ。呼ばれた彼女は小首を傾げながらも、静かにレムオンの次の言葉を待っている。
「生涯、俺のそばにいてくれないか?」
 万感の思いを込めて言えば、「うん。そのつもりだよ?」と至極当然のように返す。その様子にどうも意図が伝わってないらしいと感じたレムオンは、気恥ずかしくなり目を伏せつつ言った。
「プロポーズのつもりで言ったんだが」
「えっ」
 よくよく考えてみれば、改めて口にするのは初めてだ。お互い言葉にするまでもなく共にいるのが当たり前になっていたから。
 彼女は目を瞬かせたのち、ようやく意味を理解して顔を朱に染め上げた。そして頷いた。
「わたしでよければ喜んで」
 答えはわかっていたことだが、レムオンはほっとすると同時に喜びがとめどなく湧き出でてくるのを感じた。思わず雲の上を歩くような心地で浮き足立ってしまいそうになるが、現実を忘れてはいけない。レムオンは咳払いをすると、気持ちを律して口を開いた。
「俺はダルケニスだ」
 知ってる、という様子で彼女は見つめ返してくる。
「貴族に返り咲いたとはいえ、宮廷で俺が差別や嫌がらせを受けていることはおまえも知っているだろう」
 ティアナがいる場では直接そういったことをしてくる者はいないが、それ以外の場ではレムオンを辱め、貶めてくる。ファーロス派だけではない、同じリューガ派の貴族もそうだ。悪口程度ならいいが、レムオンを宮廷から追放しようと、あらぬ嫌疑をかけてこようとしたり、伝えるべき情報をレムオンにだけ伝えなかったりして、仕事に支障を来すことも少なくなかった。それでもここにいるのは、彼女と、エスト、ティアナ、セバスチャン――本当のレムオンをわかってくれる者たちがいるからだ。
「婚姻するとなれば、おまえも無傷ではいられない。もちろん、おまえが直接害を受けることのないよう俺もできうる限り守るつもりだ。だが、差別や偏見の目は今よりもいっそう強くなるだろう。それでも」
 構わないか、そう問おうとしたレムオンの言葉を遮って、彼女は言った。「構わない」と。
「全部覚悟のうえであなたと一緒にいるんだよ? わたしの性格、わかってるでしょ? たとえあなたに出てけって言われたって出ていくつもりないし」
 そう言って彼女は陽の光のように眩しい笑みを浮かべた。こういうとき、どうして彼女はいつもこちらが欲しい言葉をくれるのだろう。目の前の存在に愛おしさで胸がいっぱいになり、レムオンは思わずその身体を掻き抱いた。

 世界を救った英雄とダルケニスの貴公子の婚約は大陸中で話題となった。二人が慎ましくも晴れやかな式を挙げると、ディンガルはザギヴが正式に帝位に就き、ディンガル帝国とロストール王国、両国間で締結された和平条約により、太平の世が始まる。

END